中林忠良(1937–)は、東京藝術大学在学中に駒井哲郎(1920–1976)との出会いをきっかけに銅版画の道へと進み、1960年代以降、日本におけるこのメディアを代表する作家として長年にわたり活躍してきました。
中林忠良は銅版画の中でもエッチング技法を表現の中心に据え、その制作における腐蝕のプロセスをつねに重視してきました。詩人・金子光晴(1895–1975)の言葉「すべて腐らないものはない」に深い感銘を受けて自らの作品哲学としたというエピソードが示すように、彼にとって腐蝕という現象は単なる製版の手段ではなく、生成と消滅を繰りかえすこの世界の縮図であり、そのありようを作品へと照射する鏡でもあります。そうして生み出された、光と影、生命と死といったものを寓意として秘めたモノクロームの画面は、静謐ながらも強い引力をもって私たちを深い思索へと誘います。
中林忠良の銅版画制作は長いキャリアの中で幾度か転機を迎えてきましたが、そのもっとも大きなものは1970年代半ばに訪れました。一年間のヨーロッパ滞在と帰国直後の師・駒井哲郎の逝去、エッチングに用いる有害物質による健康被害の経験などを経て、彼は銅版による表現の原点にいま一度立ち返ることを決意します。そうして1977年に開始された〈Position〉シリーズは、枯草や小石など身近な素材を転写の手法で即物的に画面に定着させることによって、現実世界において自らが寄って立つ足場=Positionを再確認する試みでした。またこれに並行する形で1978年に開始した〈転位(Transposition)〉シリーズで、彼は銅版画というメディアそのものへの自己言及的なアプローチを深めます。実在から作品画面への銅版を介したイメージの「転位」や、白と黒の相克と調和といった、銅版画表現の本質を主題とした同シリーズは現在にいたるまで継続され、作家の代表作となっています。
本展は〈Position〉〈転位〉両シリーズを中心に、中林忠良の初期から現在までの主要な銅版画作品を展示し、作家の歩みを辿ります。展覧会タイトルの「Unknown Voyage(未知なる航海)」とは、銅版の腐蝕という完全なコントロールや予測が難しい作業になぞらえて、彼のアトリエにしつらえられた腐蝕室の扉に掲げられている言葉です。そこから生み出されてきた作品の数々は、半世紀以上前に初めて漕ぎ出して以来、作家が真摯に向かい合ってきた銅版画制作という旅路の航跡ともいえます。本展が多くの方にとって、中林忠良の作品とその哲学に触れる機会となれば幸いです。