明治22年(1889)、日本で最初の本格的洋画団体である「明治美術会」が、小山正太郎、浅井忠らによって結成されました。当時、絵画では日本画、彫刻では木彫など、日本の伝統的な美術しか認めない国粋主義の風潮が高まっていました。そのため、明治20年の東京美術学校創設当初には、洋画部門がなく、西洋伝来の油絵を描く画家たちは洋画への排撃に大変な苦難をしいられ、これに大同団結を図って対抗したのが、明治美術会でした。
しかし黒田清輝が、印象派風の明るい作風を日本にもたらし白馬会を結成すると、多くの洋画家たちが明治美術会から白馬会へと移ってゆきました。明治美術会に残った吉田博、中川八郎らは、明治美術会を発展継承させ、明治35年「太平洋画会」を創立。ジャーナリズムは、これを新旧対立すなわち「白馬会vs太平洋画会」として書き立てました。
吉田博、中川八郎ら若手の画家たちは、日本で描きためた水彩画を携えてアメリカを目指し、そこで成功をおさめ渡欧資金を得てフランス留学を果たしました。日本風景の情緒を巧みな手法で描いた「道路山水」、詩情豊かな水彩画、彫刻、さらにはフランスアカデミズムの大家ジャン=ポール・ローランス流の歴史画など幅広い作風をもつ太平洋画会ですが、旧派・脂派と呼ばれ、およそ100年間、あまり評価されることなく今日に至りました。
優れた才能をもちながら、時代の波にのみ込まれていった作家たちの個々の作品から、もうひとつの「明治」を感じ取っていただければ幸いです。