すべては≪画家とモデル≫から始まった。1914年夏、南仏はアヴィニヨン、ピカソ32歳の時である。この突然の、写実への復帰は厳しく難解なキュビズム運動の終焉宣言か。第一次大戦後にヨーロッパ画壇をおおう「秩序への回帰」の予兆か。死にゆく恋人エヴァの愛らしい肉体を自然に描きたかったのか。ともあれここに、以後10年にわたる通称”ピカソ・クラシック”(古典時代)の道が開かれた。
本展はパリ・ピカソ美術館の全面的な協力のもと、静穏で平和なピカソの生涯でも例外的なこの一時代(1914~1925)の全貌を辿ろうとする、世界でも画期的な試みである。なぜピカソはアヴァンギャルドの最前線から撤退し、明快な伝統的画風にたち戻ったのであろうか。
新しい波は1916年、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)との交流で決定づけられる。端正かつ優雅、洗練と型を極めたバレエの魅惑。初のイタリア旅行では古典古代に眼を開き、ヴァカンスで見る海が神話的世界に誘う。こうしてピカソは久しく見失っていた身体そのものの美、フォルムと色彩のすばらしさを再発見したのだ。ただ、クラシックはギリシア、ルネサンス、マニエリズム、アングル等とわたり歩いて決して単調ではない。
新しいミューズとなった踊り子オルガ(≪肘掛け椅子に座るオルガの肖像≫)。ふたりはすぐに結婚し、ビアリッツに新婚旅行(≪水浴の女たち≫)。間もなく長男パウロが誕生する。ピカソは初めて家庭をもったのだ。
「僕は上流階級と付き合うようになった。」詩人のアポリネールにそう告白したとおり、ピカソの人生は無名だった「洗濯船」時代とは一変した。パリの高級アパートに居を構え、そこを訪ねるコクトー、サティ等の一流の芸術家や画商、貴族たち。30歳代の後半、ピカソは冨と名声に包まれ、栄光の絶頂にあった。だが、この幸福もいずれ過去のものとなるだろう。
「破壊と変貌の巨人」というイメージをピカソに抱く人たちにとって、本展は驚きと、平安の時を授けてくれるに違いない。
(本展監修 早稲田大学教授・美術史家 大高保二郎)