日本が国家として初めて公式参加した明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会で、金工をはじめ日本の工芸品は爆発的な人気を博しました。連日、日本館は押すな押すなの大盛況だったといいます。それまで日本の工芸品は、オランダなどを通じて蒔絵や陶磁器が多少ヨーロッパに知られていました。しかし、本格的な紹介はこの時が初めてでした。日本政府はその後も継続して万国博覧会に出展し、特に日本の金工・七宝に対する称賛の声は大きかったと言われています。
当時、欧米諸国で作られていた金工作品はブロンズや銀の鋳造品が多く、日本のように金、銀、銅、素銅(すあか)、赤銅(しゃくどう)、四分一(しぶいち)といった多様な色金(いろがね)を用いて、高度な彫りや複雑な象嵌技術で加工したものは皆無でした。万博会場では、展示だけではなく販売もしていたため、飛ぶような売れ行きだったと言われています。
こうした優れた工芸美術を継承、発展させるため、政府は明治23年(1890年)、帝室技芸員制度を設けました。帝室技芸員に選ばれると、皇室や宮内省から相当の仕事の依頼を受け、生活は安定し社会的地位も高まりました。また、同じ年には東京美術学校で授業が開始されました。帝室技芸員に選ばれた金工分野の第一人者、加納夏雄(1828-1898)は、東京美術学校彫金科の初代教授にも就き、後進の指導にあたりました。このことは金工を志す人たちにとって大きな励みになりました。
その後、金工分野の帝室技芸員には、海野勝珉(1844-1915)、香川勝広(1853-1917)、塚田秀鏡(1848-1918)といった明治を代表する彫金の名工たちが任命されました。また、七宝の分野で帝室技芸員に選ばれたのは独創的で美しい金線・銀線の有線七宝の第一人者、並河靖之と無線七宝の発明者であり日本画的な作品で知られた濤川惣助の二人だけでした。