伊東深水は、大正期の帝展を舞台に広がった第一次美人画ブームで注目され、戦後間もなくに美人画人気を引き起こした第二次美人画ブームの中心的存在となり、没後の回顧展も含め、幅広い人気を得た日本画家として知られています。
その作品は、浮世絵的伝統、日本画の伝統を踏まえる一方、単なる様式的な“美人画”にとどまらず。リアルな女性像を描き出すために西欧的な造形志向をも取り入れています。制作に当たっては、常に、絵画の造形とは何かとの問いを意識し、その上で時代の女性の様相を記録しようとした彼の“風俗画”は、まさに「昭和の美人画」のあり方を真摯に追及するものであったといえるでしょう。
そのような深水の制作の秘密を、デッサンを手がかりに、紐解いていこうとするのが本展の大きな目的です。
彼は本画に取りかかる前に、女性の日常のさりげない動きや表情の美しさを、寸暇を惜しむことなくスケッチし続けることで、女性美の本質的な形を追い求めています。日々描かれる膨大なスケッチは、彼の中で絵画としての像が結ぶまで十二分に発酵され、下絵制作の入念な構想を経て、本画化されるのです。そのため、数年を経てからのスケッチの本画化もしばしば、また、一旦本画制作をされた後にも、繰り返し制作されるスケッチもあります。それは、本画における対象のリアルな把握を執拗に追及するがゆえの所為といえるでしょう。
深水は、戦中、戦地に赴いた際にも、数ヶ月で400点のスケッチを描き、現地数箇所で展覧会まで開催したといいます。そのような深水の素描について、高橋誠一郎は、「煙草好きが煙草を吸うように、いかにも自然で、あたりまえのことをしているという感じです。・・・“好きこそ物の上手なれ”、延いて素描は、彼の持つ仕事でも上位に置かれて然るべきだと思っています」と追悼の辞を述べたことがあります。また、深水の長男・紫水氏は、深水の素描への日々の取り組みを見続けた上で、深水の画家としての人生を「写生に始まり、写生に終わった」と回顧しています。本展は、そのような深水の、素描への真摯な取り組みばかりでなく、素描と本画制作との関係に焦点を当てることで、深水の素描の意味を再検証しようとするものです。
今回の展観は、30年前、目黒区内に画廊を持ち、その後、深水の素描にほれ込み、ひたすらそのコレクションに集中してきたコレクターY氏の軌跡の集成でもあります。素描に、それも�作家の素描に焦点を当てたコレクションというのは、きわめて珍しいケースでしょう。10点弱の本画も含めた170点余りに及ぶコレクションを一堂に見渡すと、本画では気が付きにくかった深水芸術の根幹をうかがい知ることが出来、また、それが絵画芸術の根幹にも通底することに気が付かれる方も多いのではないでしょうか。Y氏による本コレクションは、深水芸術の評価、さらには素描とは何かをあわせて再考させる格好のコレクションとなっていると思います。