エルンスト・バルラハ(1870~1938)は20世紀の最も注目される彫刻家・版画家・劇作家の一人です。
彫刻といえばふつうロダン、マイヨールらのフランスの名品が思い起こされますが、開放的な明朗さと、写実に基づく普遍性を持つ地中海的なフランス、イタリアなどの造形美術とは大きく違う、一味変わった名作がドイツにあることは意外に知られていません。
深く内省的で北方ゴシックの伝統を受け継ぐ特異な印象を与えるのがバルラハです。作風は重厚かつ素朴で、伝統的なうまさを抑制し、心に沁みる観照性を特徴とします。いかにもドイツらしくどっしりとした重み、力強い量感を持つ人物像は、困難に耐える人々の気持ちを宗教的感情にまで高め、根源的な魂の表現を探求した結果です。観る者の感性に直に訴えずにはいません。明確な心情表出と逞しい造形表現は、ドイツ表現主義の特徴をよく示し、ドイツにおける近代芸術のもっとも優れた遺産のひとつに数えられます。
ブロンズや大理石などの材質が好まれる近代の彫刻に木彫の伝統を復活させたバルラハの仕事は特筆されます。木彫のほか、ブロンズや陶土などの素材を用い、作風としては伝統からの離反を指向したとも言われますが、「深い敬虔さ」「地域との強い結合」などの心情は、中世以来のゴシック彫刻の伝統を近代に伝えています。
「貧困」「飢餓」「死」など深刻な主題を扱う一方で、おおらかな明るさやのびのびとした安定感、楽天的な寛容さを忘れているわけではありません。群像のような彫刻形態には、うねるような造形的力強さが認められます。困難な状況を逞しく生き抜く強い意志と快活さを刻むことで、生きる勇気と喜びが伝わる作品となっています。
バルラハは医師の息子として、ドイツに生まれました。ハンブルク工芸学校、ドレスデン美術学校、パリのアカデミー・ジュリアンで陶芸や彫刻などを学びました。陶芸学校の教師を経て、ロシアに旅し、厳しい環境と大地とを展開します。5年間のベルリン滞在の後、1910年にドイツ北部のギュストローに移住し、彫刻制作の傍ら、数多くの木版画やリトグラフ、さらには劇作を含む文学作品を発表します。1927年以降は、多くの公共記念碑や教会堂聖像を制作し、その多くはマグデブルクやリューベックなど北ドイツ各地で今も目にすることができます。また、ハンブルク美術工芸博物館長ニヨリ、ユストゥス・ブリンクマンや陶芸家のリヒャル g・ムッツとの出会いなどにより、バルラハは生涯を通し日本を含む東洋の文化に強い関心と憧れを示しており、少なからぬ影響を受けています。
第一次世界大戦後、すでに高名であったバルラハは、たびたび戦没者記念碑を依頼され、ドイツ各地で制作しますが、戦争の悲惨さを伝える非戦のメッセージをこめた作品は当局には気に入らず、1933年以降、ナチ政府により個人主義的な非協力者とのレッテルを貼られます。
1937年の悪名高い「退廃芸術展」に展示され、記念碑の多くが撤去ないし廃棄される憂き目にあいました。政府による執拗な弾圧の中、バルラハは不遇のうちに北の港町ロストックでこの世を去りました。