天保9年(1838)に長崎で生まれた上野彦馬は、幕末の文久2年(1862)に長崎で初の営業写真館「上野撮影局」を開業し、ほぼ同時期に横浜で写真館を開いた下岡蓮杖と並んで、日本写真界の開祖の一人として知られています。
オランダ人医師ポンペのもとで舎密学(化学)を学んでいた20歳の頃、彦馬は蘭書の中に写真術に関する記述を見つけ、研究を始めました。当時の日本では写真に必要な薬品の入手は困難で、薬品を作るためには化学への深い知識が不可欠でした。彦馬は同僚の津藩士・堀江鍬次郎と共に実験を重ね、苦労の末に湿板写真術を習得しました。湿板写真術を附録として収めた『舎密局必携』という化学のテキストを、文久2年(1862)に蘭書の読めない学生のために出版し、この本は明治の初めまで日本全国で化学の教科書として使われました。
同年の秋、彦馬は長崎の中島川河畔に写真館「上野撮影局」を開業し、外国人や地元の人々を撮影し始めました。幕末から明治維新の頃になると維新の志士たちが自らの姿を残すために訪れるようになり、撮影局の評判は上がっていきました。最初は狭く質素だったスタジオも店の繁盛と共に広くなり、カーペットや西洋風の椅子などの小物も次第に豪華になっていくのが写真からよく分かります。さらには海外(ウラジオストック・上海・香港)にも支店を出すなどの成功の傍らで、内田九一や冨重利平ら多くの弟子も輩出しました。彼ら弟子たちが日本全国で活躍したためか、彦馬は国内には長崎以外に支店を出さずに、生涯長崎で活動しました。
今回の展示では、長崎を訪れた外国人がアメリカとフランスにそれぞれ持ち帰った2冊のアルバムを中心に、「上野撮影局」で撮影された肖像写真、彦馬が愛した当時の長崎の風景や建物が写された作品、約70点を展示いたします。2冊のアルバムのうちフランスに持ち帰られたアルバムには、当時通訳をしていたと思われる鳥居八十五郎(横浜仏語伝習所の一期生としてフランス語を学んだ)の姿と、28歳頃の若き日の彦馬の姿が収められていました。また、日本初の女性閣僚となった中山マサが14歳の時に「上野撮影局」で撮った肖像写真、彦馬が二人の写真師(内田九一と鎌田永弼)と写っている名刺判写真、『舎密局必携』なども展示いたします。外国から里帰りした貴重な写真の数々を是非お楽しみください。