バウハウスといって広く一般に知られているベルリンのバウハウス・アルヒーフに対し、ヴァイマールとデッサウは東ドイツ圏内に位置していたこともあり、東西ドイツが統一されるまで、実際の建物やその内部、活動の全内が一般的に紹介される機会は多くありませんでした。しかし、誕生の地ヴァイマールを追われ、その後、移転したデッサウでの活動時期こそ、バウハウスの活動と理念が最も花開き、実践され、その後のデザインの流れとへと大きな影響を与えることになる製品が多く生み出された時期と言えます。
今回の「バウハウス・デッサウ展/BAUHAUS experience,dessau」では、このデッサウ期(1925~1932年)の活動を中心に当時の文化動向や社会情勢との関わりも紹介しながら、バウハウスというデザイン運動の核心とその誕生の起源に迫ります。
当時の先端技術と芸術を融合して本当の意味での機能美、造形美を目指したバウハウス。そしてその造形の最終目的を建築と掲げたバウハウス。閉鎖から75年経った今でも、私たちの生活のなかに確かに息づいているバウハウス・デザインとその理念をご観覧いただきます。
バウハウスは建築家として名を成していたヴァルター・グロピウス、3代目校長ミース・デル・ローエ、抽象絵画の巨匠ヴァシリー・カンディンスキー、色彩の詩人パウル・クレー、スチール椅子のマルセル・ブロイヤーら、当時の芸術やデザイン、建築など多様なジャンルで活躍していた一流のアーティストたちが教鞭をふるっていた造形芸術学校です。芸術と技術の新たな統一を目指し、1919年にドイツ・ヴァイマールで誕生し、自由でユートピア的な雰囲気の中で教育活動を進めていたバウハウスでしたが、1922年頃をさかいに合理化、工業化へと方向転換し、ワシリーチェアや卓上ランプなどの機能美を追求した製品を多く生み出していきます。デッサウへと移転した1925年頃になると、それらの製品は一般に広く普及し、技術は実際の建築などにも積極的に生かされるようになります。1934年、ベルリンでナチスによって閉校に追い込まれた後、マイスターたちはアメリカなどに亡命し、グロピウスはハーヴァード大学へ、モホリ=ナジはシカゴに設立されたニューバウハウスの校長になりました。そして、元学生であったマックス・ビルの活躍とともにバウハウスの理念は世界中に広められていったのです。
これまでのバウハウスに関する多くの展覧会が製品を紹介し、バウハウスのデザインについて検証を行ってきました。本展ではデザイン面のみならず、バウハウスの活動理念により重きを置いて、現在も世界中に愛好会を持ち、多くのクリエイターたちに影響を与え続けているバウハウスとその理念を再検証しようと試みます。