1913年、香川県の敬虔なクリスチャンの家庭に生まれた中原は、7歳で父を亡くします。以後、母はアメリカ人女性宣教師や英語教師のもとに家政婦として住み込み、彼を育てました。これらの生活を通して、彼は自然と欧米の文化や生活スタイルに親しみ、また、常に母や姉たちに囲まれて育ったことが、容易に女性特有の感性や視点を理解する素地を作ったとも推測されます。
小学校卒業後は、兄の招きで母と共に上京。建築士だった兄の勧めで工業学校に入学しますが、美術を学びたい気持ちを押さえられず中退し、日本美術学校絵画科に入学。在学中の19歳の時中原が開いた創作フランス人形の個展が、雑誌『少女の友』の編集者の目にとまり、プロの挿絵画家としてデビューを果たします。以後挿絵のみにとどまらず、雑誌づくりに深く関わるようになった中原は、1935年から雑誌の顔である表紙のデザインを任されます。中原の夢見るように美しく、可憐な少女像は『少女の友』読者の圧倒的な支持を得ますが、戦時色が深まる中、中原の描く少女像を不健康で軟弱とする内務省から掲載禁止命令が出たことにより、1940年6月号を最後に降板。同時に『少女の友』は多くの読者を失いました。一方で1939年に東京・麹町に淳一グッズの店「ヒマワリ」を開店。洋服や便箋、人形など多くの商品をデザインし、女学生の心をとらえ大変な人気を得ました。同年秋には支店もオープンし、通信販売も行うなど順調でしたが、やがて中原自身も海軍に招集され活動停止を余儀なくされます。
終戦後、焼け野原となった東京に戻った中原は、身だしなみすらも忘れたような女性たちの姿を見て、こんなことではいけない、と強く感じ、人間として生きるために大切なことを、どうしても伝えたいと考えました。そして、女性たちのために「自分の考える、あたたかい そしてやさしい 美しい 婦人雑誌」を自らの手で作ることに精魂を傾けます。早くも敗戦の翌年の8月15日に、念願の婦人雑誌『ソレイユ』(*季刊。第8号以降『それいゆ』と改名)を創刊。「美」に飢えた女性たちがこぞって買い求め、またたく間に売り切れます。続いて1947年1月には月刊少女雑誌『ひまわり』を創刊。大きな瞳の少女の絵、パリから届くファッションスタイル画、洗練されたインテリアのイラストなどが掲載された両誌は、当時の女性たちの憧れでもあり、夢そのものでした。
時代の潜在的な要求をいち早く察知し、それを具現化していく中原の才能は、ファッション界、出版界にとどまらず、雑誌『ジュニアそれいゆ』(1954年創刊)を舞台に、浅丘ルリ子ら新人芸能人の発掘なども手がけます。また、日本最初のミュージカル「ファニー」のプロデュースを行うなど、まさに時代の寵児、ファッションリーダーとして戦後のカルチャーの牽引役となりました。しかし1959年、絶頂期だった中原は、長年酷使した体に無理がたたって病に倒れてしまいます。長期療養後の1964年、パリ渡航で調子を取り戻した中原は復帰への意欲を見せ、1970年には新雑誌『女の部屋』を創刊しますが、2年後にまたも病に倒れ、『女の部屋』は5号をもって廃刊を余儀なくされます。以後長い療養生活の末、中原は惜しまれながら1983年に70年の生涯を閉じました。