まずはハワイそのものの歴史をおさらい。ハワイにたどり着いた初めての西洋人は英国人のジェームズ・クックで、1778年。カメハメハ1世(大王)がハワイ王国を建国したのは1795年です。
ハワイには江戸時代にジョン万次郎も行きましたが、集団での本格的な移住は1868年の事です。サトウキビ農場の労働力として日本人が集められ、約150人がハワイに渡りました。彼らは明治元年にちなんで「元年者」と呼ばれます。
1885年からは、ハワイ王国と日本政府が公認する集団労働移民「官約移民」がスタート。彼らは3年間の出稼ぎ労働者で、契約が終わると日本に戻る人がいる一方、ハワイに定住する人もいました。
ハワイにおける日本人労働者の典型的なイメージが、ジョセフ・D・ストロングの《明治拾八年に於ける布哇砂糖耕地の情景》。のどかな農園の油彩ですが、実際の労働はほとんど休憩時間無し、鞭で打たれる事もあるなど、描かれているよりも厳しい環境でした。
そんな状況から身を立てたのが、陸奥国生まれの大槻幸之助です。官約移民の農場労働者から一歩ずつ歩を進め、日本人労働者向けの「大槻商店」を開業。経済的な成功をおさめています。
時代が下ると、日本人移民の子孫が増加。アメリカ本土では日本人・日系人が増えた事で、排日運動が深刻化してきます。事態を鎮静化する目的で、日米紳士協約が締結。家族の呼び寄せを除き、労働目的でのハワイへの移住は出来なくなりました。
契約労働の後にもハワイ定住を選んだ日本人は、徐々に都市部に移住していきます。ダウンタウンの東側には日本人街が発展していきました。
このような状況のなか、最盛期の1930年代には、ハワイ全体で日本人・日系人が占める割合が37.9%に到達。3人に1人を超えるまで、日本人・日系人の存在感は高まりました。
世界各地からさまざまな人が集まり、独特の社会が形成されていったハワイに大きな衝撃が走ったのは、1941年12月7日(現地時間)。日本軍による真珠湾奇襲攻撃です。
戒厳令下におかれたハワイ。一部の日本人・日系人が拘束・拘留される一方で、全ての住民はアメリカ人としての生き方を求められました。移民やその子孫は、さまざまな矛盾に苦しみながら、決断を強いられていったのです。
大戦後のハワイは労働運動が活発化し、政治的にも共和党から民主党が優勢に。そして1959年には準州から州に昇格しました(立州)。
実は白人が少ない事もあり、ハワイの立州には反対論もありましたが、これを封じ込めたのが大戦における日系人兵士の活躍です。アメリカの寛容さをアピールする狙いもあって、立州が認められました。
もともと出稼ぎ労働者だった元年者が、結果として移民になったように、実は移民の定義はあいまいです。例の大統領を筆頭に自国第一主義が強くなり、否定的なニュアンスで使われる事が増えた「移民」と社会の関係について、あらためて考えさせられました。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年10月28日 ]