剣持勇(1912-1971)は1932年に東京高等工芸学校木材工芸科を卒業し、商工省工芸指導書に入所して以来、一貫して日本のデザイン界の指導的な立場にたって牽引し続けた。指導所時代には来日したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの薫陶を得てモダン・デザインの実践に邁進し、家具の規格化などに大きな成果をあげた。
猪熊弦一郎らが創立会員となる新制作派協会では1949年に建築部を設立。新制作派協会建築部では作品として設計図や写真、模型のみならず家具類を発表していたため、当時発表の場の少なかったインテリアデザイナーに対しても新しい発表の場を提供することになった。剣持は間もなく会員となって1951年より建築部に家具を出品、異国趣味的な東洋趣味に迎合するのではなく、国際的な競争の中で通用する近代の日本オリジナルデザインを目指すという自らが提唱したジャパニーズ・モダンの理念を追求した。
1955年に独立してデザイン事務所を構えると、折から日本の戦後建築がモダニズムの興隆を迎えるなかで、新制作派協会建築部の設立会員である丹下健三、前川国男、そして佐藤武夫、芦原義信ら建築家との共同作業を通じて建築空間に独自の個性を発揮していった。剣持と香川県の繋がりは深く、その初期の仕事として香川県庁(丹下健三設計)、香川県立体育館(丹下設計)、百十四銀行(日建設計工務(株))が挙げられる。