中国における明王朝の成立(1368)は東アジア世界にとって政治史上、文化史上の 大きな転機として捉えられます。韓王朝ではこれからほどなく、李成桂が太祖元年 (1392)に朝鮮王朝を建て、一方わが 国では同年明徳3年、室町三代将軍足利義満(1358-1408)によって南北朝の合一が 果たされます。義満は応永8年(1401)に明に朝貢を求め、その結果翌年永楽帝によ り日本国王に封ぜられ、ここに我が国は親明政策をとる李氏朝鮮とともに明の冊封体 制に組み込まれて、東アジアの政治情勢は総じて安定の時期を迎えます。この間文化 の交流が頻繁に行われ、絵画の世界では明代絵画と密接に繋がる幾多の作品を朝鮮や 日本に遺すこととなります。
わが国中世画壇の巨匠、雪舟等楊(1420~1506)は中国にあこがれ、応仁元年 (1467)遣明使天与清啓の随員として明に渡り、あしかけ3年の間各地を訪れて画を 学ぶとともに、彼地でも絵筆を執ったことが知られます。有名な「四季山水図巻」 (文明18年〈1486〉 国宝 防府毛利報公会蔵)をはじめ、帰朝ののちの作品には南 宋院体画を継承する筆法に加え、強い個性に裏付けられた彼独自の構築的世界が顕著 に窺われます。明代絵画が雪舟の画業にどのような影響を及ぼしたかは、以後のわが 国中世絵画の動向に照してもまことに興味深いこととしなければなりません。
当時の明国画壇は、浙江省や福建省出身の職業画家たちが宮廷で活躍し、雪舟もそ の中の一人李在に学んだと伝えられます。加えてこの頃は蘇州において後の文人画の 主流となる画派が盛んとなり、沈周ら幾多の画家の輩出を見ました。雪舟が目のあた りにした中国画壇はそうした、浙派と呉派の対立にいたる構図が漸く定まっ ていく時期にあたり、当然のことながら彼自身が蒙った影響も多岐にわたったであろうことが推測されます。