亜欧堂田善は、鎖国下の江戸時代にあって、オランダからもたらされた迫真的な画法や銅版画技術を研究した洋風画家の一人です。「亜欧堂」の名は、アジア(亜細亜)とヨーロッパ(欧州)にちなんだものと言われています。
寛延元年(1748)に陸奥国須賀川(現在の福島県須賀川市)の町人として生まれた田善は、寛政6年(1794)、47歳の時に、白河藩主松平定信の眼にとまり、御用を務めるようになりました。定信の目的は、器用な田善にヨーロッパの優れた印刷技術である銅版画を修得させることにあったようです。その期待にこたえて、田善は、幕府天文方が編纂した当時としては世界最高水準である世界地図の印刷に成功するなど、銅版画の実用化に力を発揮しました。
しかし、田善を語るときに忘れることができないのは、何と言っても、彼がのこした魅力的な風景画や風俗画の数々でしょう。江戸や各地の景観を題材にした60点近くに及ぶ銅版画や油彩画は、当時としては破格の迫真性をもって、人々の様子や街の景観を活写した、非常に貴重な作品群です。
江戸時代の洋風画家といえば、田善より1歳上の司馬江漢がよく知られていますが、田善の作品には江漢とはまた異なる魅力があります。ある時は、虫眼鏡を使わなければわからないほど徹底して細密に描き、またある時は、油絵具という材質を生かして画面を心ゆくまで塗りこめています。その造形は、透視遠近法、銅版画、油絵といった諸技術に触発されるところが大きかったのでしょう。技術そのものへの飽くなき追求が、それまでの洋風画家にはみられない独特の濃厚さや構築性など、特異な画風を生み出していったのです。
ヨーロッパの技術に学びながら、ヨーロッパにもない絵画を作り出していった田善。そして見渡せば、谷文晁、渡辺崋山、安田雷洲、狩野一信ら、19世紀の画家たちの中には、やはりヨーロッパの写実画法を思い思いの方法で独創的な造形へと進めていった人々がいます。歌川広重や歌川国虎らの浮世絵にみられる個性的な表現も、景観を陰影法によって写実的に捉えようとするところから出発した大胆な着想とみることもできるでしょう。こうした状況は、次に訪れる明治時代の画家が、ヨーロッパに留学するなどしながら、ヨーロッパの絵画そのものを思わせるような作品を描いたこととは、かなり異なっています。田善の活躍に始まる19世紀の江戸時代は、日本の絵画の歴史の中でも、ヨーロ bパ伝来の技術が「創造的な成熟」を遂げた、実に興味深い時期といえるのです。