天下分け目の戦いと呼ばれる慶長5年(1600)の関ヶ原合戦。そこで先陣として軍功をたてたのは、井伊直政に率いられた赤一色の軍勢でした。甲冑や旗指物など、軍備のすべてを赤色とし、戦場で一際目立ったこの軍団は、「井伊の赤備え」と呼ばれました。
天正10年(1582)、徳川家康は22歳の直政をしかるべき大将にするべく、自分の近侍の家臣であった木俣守勝(きまたもりかつ)、西郷正員(さいごうまさかず)、椋原正直(むくはらまさなお)の3人、武田氏の遺臣を中心とする117人の武将を直政につけました。家康はさらに、その強さと「赤備え」が広く知られていた、武田の有力武将飯富虎昌(おぶとらまさ)の伝統を受け継ぎ、直政の軍団も赤備えとするよう命じています。直政は、武田の精鋭部隊を名実ともに受け継ぎ、徳川家臣団のなかでも有数の軍事力を備えることとなったのです。
これ以降、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いを皮切りに、直政は主要な合戦で戦功をあげ、後に徳川四天王の1人に数えられました。跡を継いだ2代藩主直孝も、慶長19年(1614)と慶長20年(1615)の大坂の陣で、赤備えを率いて華々しく活躍しています。
家康の命令にはじまった「井伊の赤備え」は、その後、幕末にいたるまで、江戸時代を通じて受け継がれます。井伊家では、藩主から家臣にいたるまで、すべての甲冑は朱漆塗で、兜には金色の天衝をつけるように決められていました。藩主のみが、天衝を脇立とし、家臣は前立とします。
歴代の彦根藩主の朱漆塗具足は、他藩の大名と比べて簡素なつくりになっています。
実用性を重視した、初代や2代の頭形兜を踏襲し、江戸後期に流行した、装飾性豊かな復古調の甲冑はありません。しかし、大名家の表道具として、当時の工芸技術の粋を集めて作られており、その具足は機能美を備えています。また、個々の具足に注目すると、威糸の色の組合せや細部のデザインに、持ち主の個性を感じることができます。
本館では、藩主やその子弟が所用した井伊家伝来の25領に、寄贈・寄託いただいた藩士のものを合わせて、40領余の朱漆塗具足を収蔵しています。今回は、その中の選りすぐりの17領をはじめ、真っ赤な地に井桁文を金箔で押した大きな纒(旗印)や、赤い馬簾がたなびく金色の蠅取形馬印、赤備えの活躍を描いた合戦図屏風をご紹介します。
赤と金で彩られた展示室で、「井伊の赤鬼」と恐れられた軍団の全容をご覧ください�