乳房、鋏、性器。すずき万里絵の作品を特徴づけるのは、そうしたモチーフと、それらの間を埋め尽くす反復的なパターンです。彼女の絵は、エロティックだったり暴力的だったりもしますが、どこかユーモアもあります。すずきは1979年長野県に生まれました。高校生時代に統合失調症を発症。その後通信制の高校を卒業し、現在は、地元の会社と地域活動支援センターに通っています。そしてその傍ら、絵を描き続けています。初めのころは、チラシやポスターにあるような挿絵風の絵だったようですが、2007年ごろから、今見られるような作品を描きはじめました。それは、時に社内報のために描くこともあったイラストとは異なり、純粋に自分自身のための作品でした。自分の心の中に蠢く世界と感情とを外に出すべく、マジックと紙というシンプルな材料を用いて描かれたのです。すずきは、「描くと落ち着く」と言っています。
このような絵で落ち着くとは意外でしょうか? しかし、性的な事物への関心や、暴力への衝動といった気持ちは、実のところ、人間であれば誰しもがもっていると言えると思います。もちろん多くの人は、社会的な生活を営むために、その事実に蓋をします。あるいは、抑圧します。すずきは、逆に、その事実を直視します。そして、ここからが面白いところです。彼女は、自分の心の中の世界を紙に描いていくわけですが、単に再現しているのではなくて、広がりのある不定形の世界を小さな四角い枠内に収めていくときに生じる反発力をうまく利用しているのです。力を凝縮させて、イメージに変換しているのです。そうした彼女の作品は、国内のみならず、海外でも高い評価を受けています。2010年、パリ市立のアル・サン・ピエール美術館で日本のアール・ブリュット(生の美術)を紹介する大展覧会が開かれて好評を博したときにも、つねに話題の中心にありました。このたび、近江八幡で開催される展覧会は、すずき万里絵の世界を包括的な形で紹介する、日本で、いや世界で最初の展覧会になります。この機会に、ぜひ、すずき万里絵が紙の上に繰り広げる「風景」の前に佇んでみてください。私たちひとりひとりのうちにも、実はこうした「風景」が広がっているのではないかと、ちょっと想像しながら。保坂健二朗(東京国立近代美術館研究員、本展監修者)