長谷川利行(1891-1940)は京都生まれ。絵はおそらく独学で、本格的なデビューは32歳の1923(大正12)年と、かなり遅いスタートです(その前は短歌などを作っていました)。
前半生には不明の部分も多いのですが(一説には妻子がいたとも)、関東大震災後にいったん京都に戻った後、再上京。その後は亡くなるまで、東京を放浪しながら描き続ける事となります。
二科展や帝展での落選が続きますが、35歳で入選。翌1927(昭和2)年は36歳で第14回二科展の樗牛賞を受賞と、飛躍のきっかけを掴みました。
テレビ番組「なんでも鑑定団」で発見され、後に東京国立近代美術館が購入した《カフェ・パウリスタ》も、この時代の作品。利行が下宿していた個人宅に伝わったので、下宿代として置いていった可能性があります。
第1章「上京 ─ 1929 日暮里:震災復興の中を歩く」絵で身を立てる事を目指した利行ですが、その願いはなかなか実らず、1929(昭和4)年、38歳で山谷の簡易宿泊所へ。父からの仕送りがなくなったためと言われています。
下宿が無くなった利行は、行く先々で絵を描く事となります。街角では建物を描き、浅草の劇場では芸人を描きと、出向いた先が利行のアトリエになりました。
《水泳場》は、隅田公園内のプールを描いた作品。仲間のアトリエで30分で描きました。人々が集まる話題の場所を描く事を好んだ利行らしい佳作です。
この作品も二科展への出品作(第19回)。積極的に二科に出品を重ね、二科の会友や会員になる事を望んでいた利行ですが、ついに望みは叶いませんでした。
第2章「1930 ─ 1935 山谷・浅草:街がアトリエになる」利行をサポートした画商・天城俊彦が新宿に画廊を開いたのにあわせ、利行も新宿に移転。《新宿風景》や《ノアノアの少女》など、新宿を舞台にした作品も数多く描いています。
利行は、ガラス板の背面から描くガラス絵も手掛けました。絵の具を重ねる順序が通常とは逆になるなど、制約が多い技法ですが、即興的な制作を得意とした利行は、難なく自分のものとしています。
展覧会の直前に発見されたのが《白い背景の人物》。80年前の作品ですが、まるで現代美術のような趣もあります。この作品は、最後の二科展出品作の可能性もあります。
1940(昭和15)年、三河島の路上で倒れ、東京市養育院で死去。まだ49歳、画業は15年あまりでした。
第3章「1936 ─ 死 新宿・三河島:美はどん底から生じる」利行は制作に時間をかけませんでしたが、色彩や造形の感覚が抜群。天才的な力量を持っていた画家だったといえるでしょう。改めて、その早すぎる死が悼まれます。
大規模な回顧展としては、2000年に神奈川県立近代美術館などで開催された「歿後60年 長谷川利行展」以来、18年ぶり。福島で開幕して東京が2会場目、この後に愛知・福岡・栃木に巡回します。会場と会期は
こちらです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年5月23日 ]■長谷川利行展 府中市美術館 に関するツイート