≪古染付とその時代背景≫
古染付が焼かれたのは明朝末期の天啓時代(1621~27年)を中心として、崇禎時代(1628~44年)の初めころ迄の10年余りの間です。
この頃明朝は長く謳歌してきた王朝の歴史にも陰りが見え始め、各地で民変と呼ばれる民衆の反乱が相次ぎ、北方ではヌルハチが金国を起こし(1616年)、その子ホンタイジが国号を大清と改め(1636年)その勢力を拡大していました。明朝が滅び、大清国が北京に首都を移す1644年は目前に迫っていました。
一方、景徳鎮窯は江南の華やかな文化の中で、その一翼を担う華麗な磁器を生産してきましたが、宮廷からの大量発注に官窯だけでは対応しきれなくなり、民窯へも依託して焼造を行うようになります。特に万暦期(1573~1620年)はその焼造数がピークに達して、上質の粘土が入手困難になり、「虫喰い」等が生じる粗雑な磁器も造るようになりました。万暦帝の死によって、宮廷用磁器の焼造が中止されると、民窯は自由な作風の磁器を焼造することが出来るようになり、海外からの注文にも応えて、ヨーロッパへも大量の民窯製品が輸出されました。
目を日本に転じると、1615年に豊臣家が滅んで徳川幕府が盤石の体制を整え始めた時期にあたり、茶の世界では織部好みと呼ばれる、独特の焼きものが流行っていました。
この様な中で、景徳鎮民窯では日本からの注文に応え、織部好みの器を模した製品(例えば手鉢や扇形向付など)を造り、日本に輸出したのです。
景徳鎮民窯の焼造環境と、日本の茶人の好みとがうまくかみ合って、短い時間ではありましたが、自由奔放な作りの古染付は日本の茶人を魅了したのです。