戯画は、ふざけてかいた絵、滑稽な絵、風刺的な絵を総称していい、現代では漫画の語がそれにあたる。我が国の戯画の歴史としては、法隆寺金堂の天井板の落書きに始まり、平安から鎌倉時代にかけ制作された高山寺蔵の「鳥獣戯画巻」、そして幕末期に隆盛をみた風刺画とたどる。漫画の用字としては葛飾北斎に「北斎漫画」(1834)があるが、現代的な意味での漫画の語の使用は今泉一瓢の「一瓢漫画集初篇」(1895)という。今回展示した資料は、近世までの戯画の系譜から脱皮し、現代隆盛をみるストーリー漫画・物語漫画を結ぶ中間のものとえいる。月岡芳年(1839~1892)は、歌川国芳門下の明治を代表する浮世絵師で怪奇性をおびた妖美な画風で奇才とされ、後に錦絵新聞の挿絵家として同門のライバル落合芳幾と競い合った。小林清親(1847~1915)は、西洋画法を学び光線画と称する風景版画で評判をとるが、やがて時事報道画・戯画・風刺漫画に才能を示し活躍した。権力風刺の漫画は明治の終焉とともに衰えるが、ちょうどこの頃から職業としての漫画家が誕生した。彼らの多くは新聞社に属する漫画担当記者で、時事新報の記者北澤楽天(1876~1955)はその第一号とされる。岡本一平(1886~1948)は、大正元年(1912)に朝日新聞社に入社し軽妙洒脱な漫画漫文で一躍人気者になった。岡本は漫画の発展を目指し、大正4年(1915)漫画記者達に呼びかけ東京漫画会を組織した。参加した漫画家は、近藤浩一路(読売新聞)、池部鈞(国民新聞)、前川千帆(読売新聞)等18名。「東海道五十三次漫画絵巻」は、在野の美術関係組織の中央美術協会が大正10年(1921)に東京漫画会会員に企画し制作したもの。東京漫画会は、大正12年(1923)に発展的に解散し、その直後に日本漫画会が設立される。「肉筆漫画六十年史図会」は「漫画絵巻」の成功により、中央美術協会が明治六十年を記念し企画し、日本漫画会に協力を申し出たもので、「漫画絵巻」参加者の他に長崎抜天・宮尾しげをなどを加え計25名が参加。岡本一平が大正から昭和の漫画界に果たした役割は大きく、「新水や空 俳優の部 政治家の部」は昭和4年(1929)に朝日新聞に連載されたもので肖像漫画の傑作。