1945年7月、戦火の高まりとともに強制疎開命令を受けた田淵行男(1905年-1989)は、登山や撮影の中で懇意になった山案内人を頼り、東京から北アルプス山麓の西穂高村牧(現 安曇野市高穂牧)に住居を移しました。まもなく、終戦を迎えることになるのですが、彼は東京へは戻らず、北アルプスと安曇野の豊かな自然の中に溶け込むかのような生活を続けました。当時の手つかずの自然が残る安曇野をむさぼるように味わい、蝶の研究や撮影を行うという日々は、まさに「ナチュラリスト」という生き方を体現するものでした。
安曇野の自然の中で、特に彼を魅了したものが常念岳とヒメギフチョウです。秀麗な常念岳とそこに舞う高山蝶。そして、当時の牧には可憐なヒメギフチョウが群生していました。昆虫、とりわけ蝶の生態解明をライフワークとする彼にとって、この地は楽園とさえ呼びうる場所であったに違いありません。
戦後の観光開発・農業生産進という方針は、この楽園をさえ踏みにじるものとなりました。安曇野のかけがえのない自然が破壊されるにつれ彼には耐え難いものとなりました。やがてこの地から豊かな生態系が消えていったのです。晩年の彼の作品集には「安曇野挽歌」と名付けられたものがありますが、まさに彼の心境を表すものです。