慈雲飲光(じうんおんこう:1718~1804)は、江戸時代後期、京都や大坂で活躍した真言宗(しんごんしゅう)の高僧です。慈雲尊者、葛城(かつらぎ)尊者と尊称されるほか、双竜叟(そうりゅうそう)、葛城山人などの雅号でも知られます。大坂中之島の高松藩蔵屋敷において生まれ、熱心な仏教信者だった父の死後、13歳の時に出家しました。慈雲は、一宗派に拘泥せず、顕教(けんきょう)、密教、禅、儒学、神道なども幅広く学んだ結果、仏道の原点に戻ることを目指す正法律(しょうぼうりつ)を唱えました。十善戒(じゅうぜんかい)[不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不綺語(ふきご)、不悪口(ふあっく)、不両舌(ふりょうぜつ)、不慳貪(ふけんどん)、不瞋恚(ふしんに)、不邪見(ふじゃけん)]の実践を正法律の根幹とし、精力的に布教、著述などをはじめとする宗教活動を実践しました。その正法律の本山となったのが河内高貴寺でした。慈雲は、自伝の『百不知童子伝』において、書、詩、和歌などの知識の無さを記しています。また、雅号の一つに百不知童子(文字どおり百を知らない子供、つまり、多くのことを知らないという意味)を用いていますが、実際は大変な博識でした。これらは、慈雲の謙虚な性格を示すもので、博識をひけらかすことなく、常に謙虚な姿勢で万事にあたった誠実な人柄が慕われ、多くの人々の帰依を受けました。
その慈雲は、能書(のうしょ)としても有名で、その力強くて闊達(かったつ)な書は在世中から高い評価を得ていました。書が残されるためには、大きく3つの要因があります。1つは筆者を尊重してのこと。2つ目は、書かれている内容。3つ目は、美術作品としてすぐれていることです。慈雲は、この3つの要素を併せ持っています。よく“書は人なり”といわれますが、慈雲の書は技巧を超えた高い精神性も感じられ、現代の美意識からみても注目されるものといえるでしょう。