詩・書・画全てに優れ、水墨画を極めた松林桂月。1958年には文化勲章を受賞するなど、その力量は折り紙つきですが、近年はその歩みを通覧する機会がありませんでした。
本展は、没後50年となる昨年から始まった巡回展。
山口県立美術館、
田原市博物館と進み、東京に巡回してきました。
冒頭の写真は1959(昭和34)年頃、84歳の松林桂月会場は3章構成。第1章では若き日の桂月の作品とともに、師である野口幽谷(渡辺崋山の孫弟子)と、妻であり同門の妹弟子の松林孝子(雪貞)の作品も紹介されます。
幼い頃から絵を好むとともに、読書や漢詩にも早くから親しんでいた桂月。野口幽谷に南画を学ぶと、その才能を開花させていきます。
第1章「松林桂月の学画 ─ 師、野口幽谷と妻、松林雪貞 ─」第2章は1919(大正8)年から終戦まで。1898年(明治31)に幽谷が没すると、桂月はほぼ独学で絵の道を極めていきました。
多くの展覧会で受賞を重ねていった桂月。帝展審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員と、日本画壇の旧派を代表する存在として活躍を続けます。
展覧会のメインビジュアルになっているのが、太平洋戦争開戦の2年前にニューヨークで開かれた万博に出品された《春宵花影》(展示は5/11まで)。朧月夜の桜を叙情豊かに描いたこの作品は、日米両国で絶賛されました。
第2章「松林桂月の画風確立 ─ 水墨・着色・山水・花鳥への挑戦 ─」 松林桂月《春宵花影》東京国立近代美術館蔵下絵ながら迫力のある大画面が《伏見鳥羽戦 大下図》。明治天皇の一代記を伝えるため、当時の日本画家・洋画家が80図を描いた企画で、桂月は伏見鳥羽戦を担当しました。
何枚もの紙を上貼りして兵隊の姿を微修正しており、入念な準備の跡が窺えます。ちなみに桂月は皇室崇敬の念が強い人物で、戦時中も「陛下が疎開されぬなら」と、自らも疎開しませんでした。
松林桂月《伏見鳥羽戦 大下図》第3章では戦後から晩年までの作品が紹介されます。
横山大観や川合玉堂、鏑木清方などの有力作家が疎開で東京を離れていた中、前述のように東京に留まっていた桂月は、終戦半年後に開催された日展の開催に奔走。審査主任として展覧会を取り仕切り、見事成功させています。
ただ、時代ともに漢詩の理解者が減り続けたこともあり、桂月が生涯をかけて取り組んだ南画の地位も低下してしまいます。
門人にも南画を薦める事はなくなりましたが、自らはあくまでも水墨を主体とした作品に詩を加え、「詩書画三絶」をめざし続けました。
第3章「松林桂月の戦後とその活動 ─ 最後の南画家として ─」晩年は画壇の長老格として、日展の運営でも奮闘した桂月。1963(昭和38)年に88歳で死去した「最後の南画家」の告別式には、数千人が訪れたといいます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年4月15日 ]