日本近代洋画の転換期に活躍した小林徳三郎(1884-1949)。フュウザン会での活動や劇団「芸術座」の舞台装飾を通じ、当時の文化潮流と深く関わりながら独自の画風を築きました。
魚を題材とした大胆な筆致の作品や、家族を描いた温かな場面など、多彩な表現で知られる彼の初となる大規模な回顧展が、東京ステーションギャラリーで開催されています。

東京ステーションギャラリー「小林徳三郎」会場入口
小林徳三郎は現在の広島県福山市生まれ。20歳で東京美術学校(現:東京藝術大学)に入学し、白馬会系の西洋画家から写実的な絵画を学びました。卒業後、新しい美術運動であるフュウザン会に参加し、油絵、水彩画、版画など多彩な作品を発表しました。
フュウザン会はポスト印象派の影響が強いなか、徳三郎はロートレックやドガの表現に惹かれました。

1章「洋画家を目指して」 1-1「初期の作品」
徳三郎はフュウザン会の展覧会で、油彩画、水彩画、エッチング、木版画など多様な作品を発表しました。このうち、従妹をモデルとした油彩画《胸》を含む2点が早くも売却されており、初期からその才能が注目されていたことがわかります。
また芥川龍之介は、徳三郎が観客席を描いた水彩画が会場で人目を惹いたと記しています。

1章「洋画家を目指して」 1-2「フュウザン会とその周辺」
フュウザン会解散後、徳三郎は文芸雑誌『奇蹟』に準同人として加わり、表紙画や出版物の装幀デザインなど、多角的な活動を展開しました。『奇蹟』の7冊の表紙を手がけ、なかにはゴーギャンを彷彿とさせる南国的なモチーフを取り入れたものも見られます。
さらに1913年に結成された劇団「芸術座」では、舞台背景の主任を務めました。

2章「大正の大衆文化のなかで」 2-1「雑誌『奇蹟』とその関連」
徳三郎は芸術座で舞台装飾主任を務め、第一回公演の『モンナ・ヷンナ』を萬鐵五郎とともに担当しました。遺品からは舞台背景の草案や衣裳の型紙など、彼の短い在籍期間ながらも当時の様相を知る貴重な資料が多数見つかっています。
当時は画家がデザイナーの役割も担っており、徳三郎も皿などの図案や文芸雑誌『文章世界』の表紙絵などを手がけました。

2章「大正の大衆文化のなかで」 2-2「芸術座や舞台関連」
徳三郎の活動は、大正期に数多く出版された婦人雑誌にも及び、彼自身も『婦人評論』に表紙絵や文章を寄せました。『淑女画報』には彼の口絵が掲載されるなど、時代を反映した活動を展開しています。
当時、絶大な人気を誇った竹久夢二風の女性像を描いた表紙案も残されており、世相や流行に合わせて画風を試みた跡が見受けられます。

2章「大正の大衆文化のなかで」 2-3「各種図案と『文章世界』」
芸術座を退いた後は生活に困った時期もありましたが、中学校や高等女学校で図画の教師を務め、安定した基盤の中で制作を続けました。1918年頃からは、阿蘭陀書房刊行の「ナカヨシお伽叢書」の装幀など、子ども向けの印刷物の仕事に集中的に取り組みます。
展覧会では、雑誌『ナカヨシ』のために制作された画稿類などが紹介され、原画と印刷物の印象の違いを比較できます。

2章「大正の大衆文化のなかで」 2-4「婦人のための世界」
絵の教師をしながら自作の制作に打ち込むなか、院展洋画部に入選した《鰯》(所在不明)が転機をもたらします。この作品が写真家の野島康三の目に留まり、彼の自宅で個展開催が決定し、本格的な画壇での活躍へと繋がりました。
「鰯の徳さん」と呼ばれるほど魚の画題に惹かれていた徳三郎ですが、やがて日常に題材を求めるようになり、子どもの姿を捉えた代表作を次々と発表します。

2章「大正の大衆文化のなかで」 2-5「こども向けの印刷物の仕事」
1922年の個展では初期の作品から新作まで、油彩画だけでなく衝立の作品も出品されました。日記やスケッチからは、この衝立の完成に至るまでの苦心がうかがえます。
この時期には日本画の制作や、漆芸家への絵や図案の指導も行っていました。負けず嫌いであったという徳三郎の努力が実を結んだもので、動物や鳥をのびやかな線と墨の濃淡で描いた本格的なスケッチも残されています。

3章「画壇での活躍」 3-1「野島邸での個展と日本画への接近」
徳三郎は春陽会の第1回展(1923年)から出品を続け、1926年に会員となりました。この時期、彼の描いた鰯や鰺の絵は、当時の若い画家たちに強い印象を与えていました。
公募展での活躍を通じ、個性を開花させて春陽会会員として活動を続け、洋画家としての揺るぎない地盤を固めていきました。

3章「画壇での活躍」 3-2「春陽会での活躍と画風の展開」
1933年夏に肺結核が発覚。友人の実業家・福原信三の援助を得て館山での療養を経て回復し、一家団欒のなかで再び絵筆を握る喜びを感じていました。
1937年に春陽会での活動を再開したものの、以前とは描く心持ちが変化したと語っています。離れた土地での制作が増え、暮らしのなかで題材を得た油彩画に加え、素朴で抽象化した日本画も数多く手がけるようになりました。

4章「彼の日常、彼の日本」 4-1「療養を経て 洋画家が描く日本的世界」
1945年5月25日、太平洋戦争の戦火により世田谷の自宅が空襲で焼失するも、友人で支援者でもあった福原信三が所有する箱根・強羅の別荘の一角に疎開することができました。
福原は1948年に亡くなりましたが、疎開中は複数の支援者たちからの画材の提供も受けながら制作を続けました。徳三郎は、特にこの戦後の時期、福原の別荘周辺の渓流の描写に没頭していたといわれています。

4章「彼の日常、彼の日本」 4-2「強羅に疎開の頃」
1948年の暮れに息子の新居が豊島区に完成し、徳三郎は翌年はじめに強羅の疎開を終えて転居しました。近辺に制作意欲を掻き立てる題材が多いことに喜び、創作活動を楽しんでいた矢先の出来事でした。
1949年4月、春陽展に元気な姿を見せたものの、会期中に自宅で心臓麻痺のため急逝。晩年は「ただ絵を描くことだけが楽しい」と語っていた彼の突然の死は、周囲に大きな衝撃を与えました。

4章「彼の日常、彼の日本」 4-3「終焉の地 豊島」
小林徳三郎の生涯は、フュウザン会から芸術座、そして春陽会と、常に時代の文化の渦中にありながら、独自の表現を追求した洋画家の真摯な姿を映し出しています。その多岐にわたる画業の全貌を、貴重な資料とともに一堂に会した展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年11月21日 ]