棟方作品大公開
民藝運動100年の日本民藝館では、所蔵作品の多い棟方志功を三部構成で開催。最後は「神仏」と決めて準備されたそう。柳宗悦は知識を捨て「直観」で見る美を提唱し、館内には解説がありません。3期を通して作品だけでなく建物と調和する美を強く感じました。空間美も合わせて紹介します。

民藝館の象徴的大階段:入った瞬間、これまでに増して作品と空間の調和を感じた。作品がここにあるべくしてあるという存在感。見上げていた吹抜けを2階から見下ろした光景にもまた違う世界が広がっていた
「Ⅲ」に向けて「神仏はいかなる場所にも存在する」と布石を打っていたように思います。民藝館の至る場所に神仏の存在が見え隠れしていました。

大階段:建物にふんだんに使われている木材。その一枚一枚の木に現れた木目。そこに神仏の存在を思わせる。棟方が「板画」と称し、見えない何かに作らされていると感じたもの。木に宿っている神仏を、彫り出しているのではと
神仏に境界なし
キービジュアルのキリスト像。表装を変え、着色あり・なしの版画を展示。テーマは「神仏」なのにキリスト。これは信じる心に境界はないということでしょうか? 柳は美醜の二元性を否定しました。宗教対立を超えた「信仰」を伝えていると直観しました。

1階1室:キリストの展示、ここは午前中に陽が入り障子戸に影と、床にうっすら光を照らす。ガラスに反射する照明も神々しく感じる。棟方志功展では、反射の中に神仏の存在を感じさせるものとして浮かんだ
民藝館に宿る神仏
民藝館のガラスは、周囲に特殊な加工が施されており、これが神秘的な現象を生み出します。扉が重なったガラス越しに見える世界は、光が交錯しそこには見えない神仏が会話しているかのようです。

特殊加工されたガラスは現代の技術では制作ができない。当時制作された縁の幅よりもさらに広い特注もの
椅子に座ると、展示ケースの美しい木目が迫ってきました。《大蔵経板画柵》の大胆な表装の木目も建物に溶け込んでいます。階段の柵の四角い窓は角が美しいカーブになっていました。

これまでもここに座わり眺めていたが建物の細部に初めて目が向いた
椅子の座面の節目や木目、背板や腰板、同じものはありません。一つ一つが選び抜かれた素材であることが伝わってきます。それぞれが呼吸し生きているような息遣いは床板からも。「神が細部に宿る」を実感しました。
上宮太子版画鏡の展示室のベンチに腰掛けると、ケース下の扉が布製だったことに気づきました。取手の木も吟味されているようです。仏具とともに聖徳太子の伝記を展示しています。

ガラスケース下の引き違い戸も、それぞれ違う布が使われこだわりを感じさせる
虹の光降臨
何度も訪れている民藝館ですが、玄関に浮かぶ虹色の光の存在を知りました。神が降臨したかのようです。

虹色の光の出現:「Ⅱ」ではこの光がゆらゆら揺れたり止まったりと神秘的。ゆれの理由は玄関の外にかけられた簾が風にゆれていたため
「Ⅲ」では、光の出現から消えるまでを追ってみました。一筋の光が出現し、その数を増やし伸びながら移動。途中、曇に覆われ薄くなったり消えたりしながらもまた登場。そして《観音経曼荼羅》の仏を包み込みました。

光は時間とともに変化し展示ケース、大階段方向に延びながら移動
向かいの建物に沈もうとする太陽は、最後に光の放射と環を放ち、七色の光は消えました。

民藝館向かい建物に陽が沈むと、各展示室の様相は一変。ガラスの周辺のカットが光を分光し様々な表情を引き出す
閉館間際、2階の大展示室を出ると外の木々が目に入ります。見慣れた駒場公園の樹木ですが、今回はご神木のようでした。よく見ると仏を描いた屏風が映り込み、そこに存在しているかのよう。

駒沢公園の木々を借景とした中庭。うっそうしているが太い樹木、夕暮れ時はスポットライトのような光が注ぐ
ガラスに映った展示室の屏風。至るところに仏の存在を感じさせ鬼気迫る気配が。棟方の息遣いとともに、神仏といかに生きたかが伝わります。

《東北経鬼門譜》屏風の表装は棟方が銀紙で仕上げた。外光を受け青白く発光している部分も
何に美を感じるのか。知識を捨て民藝館の中に身を置き1日過ごしてみる。光の変化、雲や風、それらが作りだすゆらぎと自然素材の共鳴。そこに加わる人の手による無作為の美。自分なりの美や神仏のかたちを感じられる最終章でした。

大階段のコーナー:手すりは面取りされコーナーごとに違う造作が施されている。自然に逆らわず手になじむ用の美を感じさせる
[ 取材・撮影・文:コロコロ / 2025年9月25日 ]