本展は、中島敦(1909~1942)の人生とその仕事を追った展覧会。
小説『山月記』(1942.02)の著者であり、教科書ではお馴染みのあの方です。
第1部 放浪する魂
展示室に入ると直ぐ、真正面に中島が旅行で使用したトランクケース(上の写真右手前)が展示されています。
東京生まれの中島ですが、両親の離別や父親の転勤で、幼いころから埼玉、静岡、朝鮮・京城(現ソウル)の地を転々とします。その後も旅行や病気療養のため、中国・大連やパラオを訪れています。
また、作家を志しながらも中々世に出る機会を得られませんでした。
第1部では、そんな苦悩の日々が「放浪」と名付けられます。実際に使用されたトランクケースとともに、彼の足跡を辿る“旅”が始まります。
父は漢文教師、祖父と伯父は漢学者という家系に生まれた中島。自身も成績は優秀で、
学生時代から学内の雑誌で、実体験に基づいた作品を発表しています。1933年(23歳)には、中島は横浜高等女学校で教員の職を得て、1941年(32歳)まで横浜に暮らします。
大学在学時に知り合い、結婚した、妻・タカとの間には2人の息子も生まれました。
展示では、中島が実体験で得た知識や経験が蓄積されていく様や、手に入れた知識と経験が各作品にどのように落とし込まれていったのかが、わかりやすく解説されています。
作品からは見えてこない、教員や、夫、父親としての一面も垣間見ることが出来ます。1941年、中島は南洋庁国語編修書記として赴任したパラオから、息子に宛てた手紙を書いています。
現地に伝わる昔話や、自生する植物について、イラスト付きで説明する優しい文章が印象的でした。
上は『山月記』と『文字禍』の展示コーナー。1942年2月(32歳)、この2作が「文学界」に掲載されたことで、初めて作家として中島の名が世に出ます。大きな文字装飾が配され、他のコーナーと比較すると特別感があります。
第2部 実りのとき
漸く念願の作家デビューを果たした中島でしたが、喘息のため、同年12月4日に33歳の若さで亡くなります。
その間僅か8か月。
短いながらも、作家としては最も充実した時期だったそうです。1942年7月に作品集「光と風と夢」、同11月に「南島譚」が刊行されますが、生前の刊行物はこの2点だけでした。
未発表のまま遺された原稿が、その後公表されるに至った経緯も解説されていました。
第3部 生きている中島敦
中島の作品は、教科書へ採用されることで多くの人の目に触れることになります。
また、現代文学や演劇といった他分野へも影響を与えています。
本展のおわりに、中島を主人公にした漫画「文豪ストレイドッグス」や『悟浄出世』に着想を得て制作されたアニメ映画「バケモノの子」の展示コーナーがありました。短い生涯のうちに残された中島の作品が、実に様々な仕方で展開されていることがわかります。
最後に、展覧会会場の県立神奈川近代文学館の近くには、中島の碑がある外国人墓地や、中島が通勤に使用した山手本通り、横浜高等女学校跡(現在は元町幼稚園となり記念碑がある)など、ゆかりの地が点在しています。
中島の見た情景を思い描きながら散策してみるのも面白いのではないでしょうか。
エリアレポーターのご紹介
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nakane
作品自体もそうですが、展示されている空間も好きです。展示風景や雰囲気など、図録や公式HPの記録には残りづらいことを、一ファン目線で捉え、共有出来たらなと思います。
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