房総で生まれ、房総の人に支えられ、房総で亡くなった石井林響。まさに千葉で紹介するに相応しい画家です。千葉県立美術館では1990年に大規模展が開催されていますが、
千葉市美術館での本展は、それをしのぐ出品数となりました。
石井林響(本名:毅三郎)は、千葉県土気本郷町(現千葉市)生まれ。はじめは洋画を志すも「親しみを得ない」として日本画の道に進み、橋本雅邦の門生に。初期は「天風」の号を名乗っていました。
初期に得意としたのが、可憐な表情の人物が印象的な歴史画。俊才の誉れ高く、順調なスタートを切りました。安田靫彦らとともに伊豆・修善寺温泉に長期間滞在し、画道を研鑽。結婚後は南品川に住まいを構え、色鮮やかな風景画や田園風俗画など、さまざまな画風を試みました。
林響を支えたのが「画会」。会費を募って画家を中心とした催しを行い、作品を頒布する後援会システムです。いわば「売り絵」と言えますが、望まれるものを何でも描く姿勢は、画家としての基礎体力を向上させました。林響はいくつもの画会を持ち、特に房総出身者の人々に支えられています。
号を「林響」に変えたのは大正8年。帝展などで活躍を続けますが、徐々に画壇とは距離を置くようになります。
その頃、林響を魅了したのが、古画に見られる文人の世界です。同時代の画家たちの中でも、特に目利きとして知られた林響は、浦上玉堂をひいきとしたほか、中国・清時代の石濤による珠玉の名画《黄山八勝画冊》を苦労して入手。伊藤深水ら周辺の画家にその世界を紹介するとともに、自らの画業も文人画に向かっていきます。
大正15年には千葉県大網町(現大網白里町)に移住、自ら画房「白閑亭」を設計しています。愛禽家だった林響は、キジ科の鳥であるハッカン(白鷴)のほか、50種もの鳥を飼っていました。
ついに自由に楽しんで描く境地に到達した林響。昭和2年の第8回帝展に出品された《野趣二題 枝間の歌・池中の舞》は、文人画時代の最高峰といえる作品です。「西に(橋本)関雪あり、東に林響あり」と称賛され、帝展の委員に上り詰めました。
ただ、残された時間は長くありませんでした。白閑亭に移って3年も経たずに、脳出血で危篤に。奇跡的に快方に向かうも翌年再び脳出血で倒れ、45歳の短い生涯を閉じました。
告別式を営んだ本堂からは人が溢れたという石井林響。短い画業でしたが多くの人に愛され、幸せな人生だったといえるでしょう。墓碑は安田靫彦が設計しています。
千葉市美術館だけでの単独開催ですが、日本画好きなら見逃せません。会期中に一部の作品が展示替えされますので、ご注意ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年11月28日 ]