現在の和歌山県に生まれた川上不白。江戸での仕官の後に、京に上って如心斎天然宗左(1705-51)に入門し、茶人・不白として歩み始めました。
展覧会は、まず如心斎の紹介から。表千家六代の長男として生まれた如心斎は、26歳で七代家元を継承。江戸中期の茶道人口の広がりを受け、稽古や門弟の制度を整えるなど、現在まで続く家元制度を確立しました。千家茶道の中興の祖といえる存在です。
不白は16歳で如心斎に入門しました。早くから師の信頼を得て、活動をサポート。利休以来の茶の湯の系譜である事を証明する「茶湯正脈」を27歳で授けられています。
不白の活躍を物語るエピソードが「利休遺偈(ゆいげ)」。利休が割腹の間際に遺した辞世の書である利休遺偈は、当時は千家を離れており、如心斎は取り戻す事を切望していました。
利休遺偈を蔵していたのは、江戸の材木商・冬木家。不白は何度も交渉を重ねた末、ついに利休遺偈の入手に成功。その功績により、如心斎からは茶碗が贈られています。
江戸と京を行き来するように活動していた不白は、師・如心斎が没した1755年(宝暦5)年頃からは、江戸に落ち着きます。
それまでの江戸では、徳川幕府と結びついた石州流が主力でしたが、不白は京都の茶の湯である、千家茶道の普及を図ります。
皇族で「上野の宮様」と崇拝された輪王寺宮をはじめ、盛岡藩(南部氏)、長州藩(毛利氏)、土佐藩(山内氏)など大藩の大名にも千家茶道を指南した不白。その名声は高まり、爆発的に門人を増やす事に成功しました。
その勢力を示しているのが、江戸の茶人を番付にした《東都茶人大相撲》。東西の大関をはじめ、番付上位に不白流が並んでいます。
不白は茶碗や茶杓などを自作しています。展覧会メインビジュアルの《赤楽茶碗 銘 只》は、その名の通り「只」の文字が大きく記された茶碗。不白は「只」を好み、何度も揮毫しています。
展示室2には、不白の書画も紹介されています。中村芳中の作品に多く賛をしているほか、自画賛も芳中の影響が見てとれます。
会場最後は、不白が近代数寄者に与えた影響について。明治維新により茶道は一時衰退しますが、江戸に広まっていた不白流の人気は続きました。
不白流の流れからは、多くの近代数寄者が生まれています。根津美術館のコレクションの礎を築いた根津青山(初代 嘉一郎)もそのひとり。水差の底に、如心斎が「黙雷」(不白の菴号)と朱書きした《矢筈口水差 銘 黙雷》は、根津青山が大正時代に手に入れたものです。
昨年に引き続き、五島美術館、三井記念美術館と共同で「秋の三館 美をめぐる」キャンペーンも開催中。3つの展覧会を制覇すると、1館の次回展が無料になるという、なかなか太っ腹な企画です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年11月15日 ]
※前期(11/16~12/1)・後期(12/3~12/23)で展示替えがあります。