菱田春草は明治7年生まれ。大観、観山に続き、東京美術学校(以後、美校。現在の東京藝術大学)の第2期生として入学し、橋本雅邦に師事しました。
展覧会の冒頭は初期の作品から。日本画の基本とされる線描を重視しつつも、新しい絵画表現をうかがわせる、美校の課題で制作した作品などが並びます。その後、春草は美校の教師を務めていましたが、天心が野に下ると教職を辞します。その後、日本美術院の創立に尽力し、新しい日本画の表現を模索。そして大観と春草は墨で輪郭線を描かない表現、いわゆる「朦朧体」を取り入れます。
古代中国の物語が題材の「王昭君」はこの時期の作品。敵国の匈奴の王へ女性を送るため、肖像画で最も醜い者を選ぶことになります。美しい王昭君は、絵師にわいろを贈らなかったために醜く描かれてしまい、敵国へ嫁ぎます。描かれたのは王昭君と女性たちの別れのシーン。女性たちの衣や肌はふんわりとした質感で描かれ、朦朧体の成果が見られます。春草作品で重要文化財に指定されている4点の中の1つです。
第1章 日本画家へ:「考え」を描く 1890-1897年春草は大観とともに1903年にインド、1904年から1905年には西欧諸国へ外遊します。二人は海外で旅費を稼ぐために連名での個展を開くなど、日本画をアピール。西洋の日本美術観を意識した水墨調の作品は高値で売れ、春草は自信を持って帰国します。
西洋歴訪を経て、春草は色彩研究に打ち込みます。世界的にも色彩研究が発展したのがこの時代。春草も補色の対比や調和など、日本画で行われたことのなかった配色の組み立てに挑むなど、積極的に活動していきます。
第三章 色彩研究へ:配色を組み立てる 1903-1908年しかし、1906年ごろから春草の眼に異変が起きます。療養生活を余儀なくされ、春草は絵筆をとれない日々を送ります。
療養中、代々木の雑木林を歩いた春草。その体験から復帰後には「落葉」の連作に取り掛かります。今回の展覧会では前期後期併せて5作品が出品(会期中展示替えあり)。「落葉」は今までの日本画にはなかった空気遠近法を取り入れた実験作です。春草はこの制作において「距離」の表現と「画の面白み」との間で悩んだと語っています。
《落葉(未完)》「落葉」の連作で「画の面白み」の表現を選択した春草は、背景描写を省き、樹木と動物を配した作品を次々と発表。琳派の花鳥画の研究成果もここで結集します。「柿に猫」では、葉や柿、樹木には陰影がなく平面的ですが、猫はふわふわの毛並みや足の陰影など写実的です。
装飾性と写実性という二つの表現の調和は大好評を博し、春草のもとには黒猫図の依頼が殺到しました。
《柿に猫》 菱田春草展 東京国立近代美術館 常に研究と実験を繰りかえし、批判にも耐え、新たな日本画の表現を切り開いてきた春草に追い風が吹き始めた矢先、病魔が春草を襲います。以前から患っていた腎臓病が悪化。春草は36歳の誕生日の数日前に、その短い生涯を閉じます。「黒き猫」を描いた約1年後のことでした。
大観が後に日本画の巨匠と呼ばれるようになると「春草の方がずっと上手い。彼がいたら私の絵は10年進んだだろう」と惜しんだことは有名です。
「不熟の天才」と岡倉天心が評した菱田春草の画業を、余すところなく見ることができる展覧会。前期後期で重要文化財4点すべてを見ることができます。展示替えが多数ありますので、
公式ページをチェックしてお出かけください。
[ 取材・撮影・文:川田千沙 / 2014年9月22日 ]