1950年代、日本の版画は世界を席捲していましたが、その嚆矢が駒井哲郎。1951年に木版画の齋藤清とともに「第1回サンパウロ・ビエンナーレ」で材聖日本人賞、翌年には木版画の棟方志功と「第2回ルガノ白と黒国際版画ビエンナーレ」の9人賞を受賞と、その実力を示しました。
受賞作も含め、駒井といえばモノクロの作品が代表的ですが、実は多色刷りも多数手がけています。展覧会では、あまり知られていないカラフルな作品も含め、関連作家の作品とあわせて、駒井の歩みを6章で紹介していきます。
第1章「銅版画との出会い」。14歳で銅版画に出会った駒井。当時、美術における版画の位置づけは曖昧で、美術系大学に版画科はありませんでした。駒井も東京美術学校では油画科予科に入学。臨時版画教室などで研鑽し、銅版画の技術を身に付けていきます。初期の作品は写実的な水辺の風景、ホイッスラーからの影響が感じられます。
第2章「戦後美術の幕開けとともに」。駒井を飛躍させたのが、木版画家・恩地孝四郎との出会いです。1947年に恩地が主宰した版画研究会「一木会(いちもくかい)」の同人となり、内的な心象風景をあらわす作風に変化。技術的にも面の表現に取り組み、内外で脚光を浴びるようになります。
第3章「前衛芸術との交差」。駒井も一時期参加した実験工房は、1951年から57年に活動した総合芸術グループです。詩人・美術評論家の瀧口修造のもとに造形作家・作曲家・ピアニスト・照明家など14人が集いました。駒井はグループの中ではひと回り年長で、他のメンバーにとっても駒井の存在は大きな刺激になりました。

第4章「フランス滞在と「廃墟」からの再生」。1954年に駒井は渡仏し、銅版画の本場でデューラーやレンブラントなどの版画に触れました。1年半後に帰国するも、伝統の重さを実感して自信喪失気味に。樹木を題材にしたシリーズから、徐々に立ち直っていきました。
第5章「詩とイメージの競演」。駒井は詩人とも数多く共作しています。1958年に詩人・大岡信の詩に寄せた版画を制作して以来、親しく交遊。安東次男とは、詩画集『からんどりえ』『人それを呼んで反歌という』を続けて制作しています。
第6章「色彩への憧憬」。駒井は1950年代から色刷りを手掛けていますが、「白と黒の作家」である事への自負からか、生前は発表しませんでした。ただ、晩年になるにつれて色彩あふれる作品が目立つのは、敬愛するルドンへの思いが透けて見えます(ルドンも晩年はカラフルな作品を描きました)。
脈々と続いてきた木版画とは異なり、日本における銅版画は長くマイナーなジャンルでしたが、その荒野を切り開いたのが駒井。56歳没と、短命だった事が惜しまれます。
今回は会場にて、駒井愛用の品々も展示されています。銅版画のさまざまな技法についても、やさしい言葉で解説されています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年10月12日 ]