下村観山は明治6年生まれ、能楽師の家に生まれました。8歳から狩野芳崖、橋本雅邦に学び、13歳で出品した展覧会ではその非凡な才能に注目が集まり、新聞の評に「実に後世恐るべし」とさえ書かれます。本展では幼いころの修行が垣間見える作品を見ることができます。
「第1章 狩野派の修行」から「第2章 東京美術学校から初期日本美術院」へ16歳で東京美術学校に入学、同期には横山大観らが居ました。在学中には大和絵の技法を研究、卒業制作である《熊野観花》(1月14日から展示)でその技術は結集します。
また、絵巻物も研究し、《修羅道絵巻》に成果を見ることができます。鮮やかな色彩と卓越した画力、リズミカルな構成で描かれた明治33年、27歳のころの作品です。
《修羅道絵巻》 仏教における六道のひとつである修羅道は、阿修羅が住む争いの絶えない世界を描いています明治31年、観山は天心、大観らとともに日本美術院の創設に携わります。その後は英国留学・欧州巡歴を経て、西洋絵画の技法も研究していきます。
本展のメインビジュアルになっている《小倉山》は、明治42年の作品。観山は西洋留学で洋画の色彩や配色を学び、帰国後は西洋顔料も使用して鮮やかな琳派の装飾性の表現を試みました。そのひとつの成果とされる本作は、前期のみ画稿も共に展示されます。
百人一首に納められた「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今一たびの みゆきまたなむ」の歌意を描いた作品東京美術学校で1年後輩にあたる菱田春草は、観山について美術記者に語っています。
「下村君の態度は常に復古的である、それは最初より下村君の態度であった。或(あるい)は土佐絵或は宗達風と云う様に、何か古画に根拠を求めてそれに新しみを加えて自分の画を作る。そしてそこに面白みを出すことに長じている。」
《白狐》は天心亡き後の再興院展の第1回に出品されました観山の作品の中で重要文化財に指定されている唯一の作品が《弱法師》です。大正4年の再興第2回院展に出品され、当時から最高傑作と評されました。立派な梅の枝と俊徳丸が描かれた右隻と、静かな夕日が浮かぶ左隻の対比が印象的。こちらは12月20日までの展示です。
大観や栖鳳という近代日本画のスーパースターと比較すると少し印象が薄い下村観山ですが、圧倒的な研鑽で培われた美しい線と色彩で描かれた作品は必見です。47年の画業を余すところなく紹介していますので、観山ビギナーにも是非お勧めです。
期間中、展示替えがありますので公式サイトでチェックしてからお出かけください。
[ 取材・撮影・文:川田千沙 / 2013年12月6日 ]