日本では16年ぶりとなるパスキンの回顧展。本展は生誕130年を記念した企画で、
岐阜県美術館、
北海道立釧路芸術館、
熊本県立美術館と巡回し、
パナソニック 汐留ミュージアムが最後の会場となります。
若い頃から娼館に入り浸るなど、奔放な生活を送っていたパスキンですが、その画力は折り紙付き。わずか19歳で人気風刺雑誌と契約します。
展覧会は「ミュンヘンからパリへ」「パリ、モンパルナスとモンマルトル」「アメリカ」と時代順に進む構成。画風の変遷を辿ります。
会場入口から内容的には第4部「狂騒の時代」がメイン。第4部が会場半分以上を占めています。
戦火を逃れてアメリカに渡っていたパスキンは、1920年、第一次世界大戦の終結とともに再びパリへ。歓楽の空気に満ちていたパリで、多くの油彩を制作しました。
1924~1925年頃は、パスキンの絵画スタイルの成熟期といわれます。展覧会メインビジュアルの《少女 ─ 幼い踊り子》も、1924年の作品です。
第4部「狂騒の時代」 動画最後は《少女 ─ 幼い踊り子》1927年頃からは「真珠母色(しんじゅぼしょく)の時代」。軽いタッチと淡い色彩がまるで貝殻の内側のように見える事から、この名で呼ばれます。
十八番の裸婦画もこの時期の作品は特に冴え渡り、背景に溶け込むよう柔らかな描写はコレクターや画商たちに絶賛されました。
この時期がパスキンの画家としての絶頂期。ただ、同時に最晩年でもありました。
第4部「狂騒の時代」 動画最後は《三人の裸婦》生前から「人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ…それまでに力を発揮できていなければ、その歳で生み出すものは、もはや何もないだろう」と語っていたパスキン。酒に溺れた生活は心身を蝕み、愛人だった人妻のリュシー・クローグとの関係にも悩んでいました。
1930年6月2日、手首を切ったパスキンは、壁に血文字で「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)と書いた後、窓のノブで首を吊って自死。宣言どおり、45歳の事でした。葬儀では夥しい人が葬列を作り、パリ中の画廊が喪に服したと伝えられます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年1月20日 ] |  | モンパルナスのエコール・ド・パリ
ジャン=ポール クレスペル (著), Jean‐Paul Crespelle (原著), 藤田 尊潮 (翻訳) 八坂書房 ¥ 1,944 |