没後40年 熊谷守一 生きるよろこび

‘好々爺’に非ず

明るい色彩と、単純化されたかたち。画家・熊谷守一の作品は、一見すると単純なようにも思えますが、その裏に科学者のような冷静な観察眼が潜んでいる事は、あまり知られていません。没後40年を記念した展覧会が東京国立近代美術館で開催、東京では久しぶりの大回顧展です。

  • (左から)《眠り猫》1959年 / 《猫》1965年 愛知県美術館 木村定三コレクション
  • (左から)《赤城の雪》1916年 岐阜県美術館 / 《某夫人像》1918年 豊島区立熊谷守一美術館
  • (左から)《陽の死んだ日》1928年 大原美術館 / 《ハルシヤ菊と百合》1926年 豊島区立熊谷守一美術館寄託
  • (左から)《裸婦》1930-40年 / 《人物》1927年 豊島区立熊谷守一美術館
  • (左から)《麥畑》1939年 愛知県美術館 木村定三コレクション / 《谷ヶ岳》1940年 茨城県近代美術館
  • (左から)《ヤキバノカエリ》1956年 岐阜県美術館 / 《萬の像》1950年 岐阜県美術館寄託
  • (左から)《山茶花》1958年 公益財団法人 熊谷守一つけち記念館 / 《向日葵》1957年頃 静岡近代美術館 大村明
  • (左から)《箱の上の裸女》1960年 天童市美術館寄託 / 《裸》1958年
  • (左から)《土饅頭》1954年 愛知県美術館 木村定三コレクション / 《あかんぼを》1965年

長い髭を生やした印象もあって‘好々爺’という文脈で紹介される事も多い守一。本展では別の一面に迫っていきます。

会場は年代別で3章構成。1章は「闇の守一:1900-10年代」で、広く知られている守一のイメージとはかなり異なる作品が並びます。

若き日の守一が関心を寄せていたのは、光と影。列車への飛び込み自殺に遭遇した守一が描いたのが《轢死》(1908年 岐阜県美術館)です。経年による暗色化で判別しにくくなりましたが、闇夜の女性の亡骸が燈火で照らされます。

守一は日記の中で、この作品を90度回転させた事に言及しています。横たわった女性が、再び生き返るような視覚的なトリック。後に長女の作品で繰り返す事となります。

1章「闇の守一:1900-10年代」


2章は「守一を探す守一:1920-50年代」。二科会で活躍し、海や山に出かけて多数の風景画を制作。裸婦も数多く手掛けています。後の作品の特徴となる「赤い輪郭線」が出てくるのは1940年前後です。

私生活では5人の子どもに恵まれた守一ですが、長男と三女は早世。長女の萬も21歳で亡くなります。病床の萬を縦位置にした作品が、《轢死》をふまえたものです。

独自の道を歩んだように感じられる守一ですが、実は海外の画家にも関心を寄せていました。《ヤキバノカエリ》はアンドレ・ドランの影響が顕著。「アンリ・マティスは嫌い」と述べていましたが、モチーフの配置などにマティスとの関連性が見てとれます。

2章「守一を探す守一:1920-50年代」


3章は「守一になった守一:1950-70年代」。一般に良く知られるのは、この時期の作品です。

70代半ばで身体を壊して以降は、あまり外に出られなくなった守一。自宅の庭の花や虫が主題になりました。ただ、庭で描くのはスケッチのみで、油彩は夜のアトリエでじっくり行っていました。

この時期の作品は極端に単純化されていますが、じっと見ていると動き出すように感じるものもあります。守一は早い時期から光や色彩の性質について学んでおり、人の眼の特性も踏まえた上で、絵の構成を工夫していたのです。

同じモチーフを繰り返し描く事も多い守一。この章には、壁一面に猫の作品が並ぶ展示室もあります。

3章「守一になった守一:1950-70年代」


91歳の時に「みなさんにさよならするのはまだまだ、ごめん蒙りたい」と語っていた守一。穏やかな作品のイメージとは異なり、燃え上がるような創作への情熱を持ち続けていました。

1977年に97歳で死去。旧宅跡地に建つ豊島区立熊谷守一美術館では、常設で熊谷守一の作品を展示しています。

[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年11月30日 ]

ひとりたのしむ ― 熊谷守一画文集ひとりたのしむ ― 熊谷守一画文集

熊谷守一(著)

求龍堂
¥ 3,240

料金一般当日:1,400円
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展覧会の詳細

会期

2017年12月1日(金)~2018年3月21日(水・祝)