フィレンツェはルネサンス美術の発祥の地である。この町で生まれた視覚文化の新しいスタイルは、たちまちにイタリア各地の美術家たちを魅了し、やがてはヨーロッパ全土にその影響範囲を広げて、西洋美術の様相を一変させた、しかし、ルネサンス時代のフィレンツェとは、すばらしい環境に恵まれた芸術家たちが自由にその創造性をはばたかせた幸福な楽園であったかというと、必ずしもそうではない。14世紀から16世紀にかけて、フィレンツェは政治党派の激しい闘争、圧倒的な外国勢力による屈辱的な占領、めまぐるしい政権の交代、政敵の追放から頻発する陰謀・暗殺事件まで、実に多くの苦難と浮沈に満ちた都市生活の舞台だった。今日わたし達に残された華麗な美術作品の数々は、当時のフィレンツェの美しい現実をそのままに映し出しているというよりは、厳しい実践的・精神的生活に投げ込まれて苦闘する人々の夢と憧れ、苦悩と絶望を映し出している。暗く陰鬱な土壌から生え出でた花のようなものである。
フィレンツェ美術の急速な発展は、商業経済の興隆と、合理性と現実性の追求を強く志向する市民のメンタリティとを母体に実現した。人間的現実に対する新しい肯定的な眼差しは、中世の世界観を支配した神の世界のイメージと現実世界との間に、新しい、ある意味で不安定な関係を生み出した。一方に、人間が永遠の真理に向かって飛翔できるという不可能な夢想があり、他方に、恥辱にまみれた深淵へと失墜する絶望的感覚があった。美術の制作者もまた、いまや伝統に則って安定した労働を繰り返す職人ではなく、創造の苦しみを自らに課する人、「芸術家」として自己をとらえはじめた。このような変化に伴う深い人間的葛藤の振幅こそが、フィレンツェの美術を生み出した原動力である、といったら言い過ぎであろうか。
本展覧会は、このようなフィレンツェ美術の豊かな成果のパノラマを、絵画、彫刻、建築、科学など6つのセクションから示す構成になっている。そこには、もっとも先進的な芸術家の実験的思考を示す作品から、日常生活を彩る瀟酒な工芸品まで、多彩な作品が含まれている。共通するのは、それらを制作した人々がもっていた高い技術的水準であり、また、「フィレンツェ的」としか呼びようのないある洗練されたスタイルの感覚であろう。
過去に貴重な文化遺産の大量流出を経験してきたイタリアという国は、自国の美術作品を一時的にせ�国外に出すことに対して、きわめて慎重かつ神経質な国である。今回、ほぼフィレンツェ一都市の諸美術館からこれほど多くの優れた作品が出品されるのは、非常に例外的な事と言ってよい。より多くの人々がこの展覧会を楽しんでいただければ幸いである。
<東京芸術大学助教授 越川倫明(本展学術協力・日本側監修者)>