【古九谷とは】
肥前の有田(現・佐賀県有田町周辺)で17世紀中期に焼かれた伊万里焼であるにもかかわらず、長い間、加賀の九谷村(現・石川県加賀市)で焼かれたと思われていた磁器が「古九谷」です。幕末に加賀で焼かれるようになった「再興九谷」に対して古い九谷焼という意味で名付けられ、加賀百万石のやきものと認識されてきた古九谷が、実は伊万里焼なのではないか、という学説が発表されたのは昭和13年(1938)のことでした。以降、長年にわたって古九谷は九谷産か有田産かという激しい「古九谷産地論争」が繰り広げられてきましたが、現在では発掘調査や文献史料の研究などによって、有田で作られたものであるという説が有力になり、その内の色絵製品の一部を便宜的に「伊万里焼の古九谷様式」と表現しています。
【17世紀中期の伊万里焼】
伊万里焼は1610年代に佐賀県有田地域で始まった、日本初の磁器です。草創期には酸化コバルトを呈色剤とする顔料の呉須(ごす)で下絵付けをして青い文様をあらわす染付や、青磁や銹釉(さびゆう)などの色釉による文様表現しかなかった伊万里焼に、赤・黄・緑・紫などの上絵具でカラフルに絵付けをする色絵の技術が誕生したのは1640年代後半でした。それから20年ほどの間に伊万里色絵は、淡い色調で幾何学文様を多用した祥瑞手(しょんずいで)・中国絵画のような人物や花鳥の文様が描かれた五彩手(ごさいで)・緑や青、黄色などの濃厚な絵具を使って大胆なデザインが描かれた青手(あおで)など、多様な展開と高度な技をみせるようになります。これらが現在、「古九谷様式」と呼ばれているものです。また、1660年代前後にはヨーロッパ向け輸出品として、素地の精製などの技術が飛躍的に発展した初期輸出タイプが作られました。