旧英国総領事館の敷地に、1981年開館した横浜開港資料館は、今年40周年を迎えます。

それを記念し、日英関係の黎明期ともいえる江戸時代、イギリスと日本の関係を、時代を2期に分けて展示。Ⅰ期の「江戸時代初期~後期」を紹介します。

日英の出会い
「鎖国」と言われた時代、オランダだけに門戸を開いていたと思われがちですが、日本とイギリスとの出会いは、江戸時代が始まる前でした。初めて2人の若者がイギリスの地を踏んだのは1588年。一方、初めて日本に来航したのは1600年。ウィリアム・アダムスは、徳川家康に重用され、 外交顧問として活躍しました。

CHAPTER 01 日英の出会い
17世紀、アジアの海にイギリスが姿を表します。目的は東南アジアの香辛料の獲得。日本は毛織物の市場として期待しました。しかし、毛織物の売り上げは不調、東インド会社は、10年で撤退します。
日本人からみたイギリス
以後、17世紀半ばから18世紀、イギリス人は訪れなくなり、あまり関心を示しませんでしたが、江戸前期、世界各国の人物の姿を男女ペアで描いた掛け軸の中に見られます。

CHAPTER 04 典籍のなかのイギリス
イギリスから見た日本
17世紀半ばから18世紀の初め、イギリスでも、日本に関する書籍が刊行されます。空想や捏造もあり正確でないものもありますが、日本のイメージを伝える役割を果たしました。

CHAPTER 05 イギリス、アジアへ
その中で、注目は、ケンペルの『日本誌』。初の本格的な日本見聞録としてドイツ人医師が、1727年英語で発行。資料館には1728年版が所蔵されています。英国に日本の社会・文化等が紹介され、日本研究の基礎となりました。

(左)ケンペル 『日本誌』 1728年
フェートン号事件
フランス革命後、権力を握ったナポレオンは、ヨーロッパ各地に支配領域を拡げます。一方、フランスに敵対するイギリスは、 フランスの従属国の拠点を攻撃し勢力を拡大。その様子を描いた風刺画は、地球をプディングに見立て分け合っています。

CHANPITER 08 フェートン号事件
そんな折、1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎に入港し、オランダ人に乱暴する事件が起きました。さらに、長崎に船を送りオランダ商館を手に入れようとします。
幕府はこの事件に衝撃を受け、英語の研究を開始。翌年、オランダ語通訳に英語の習得を命じ、日本初の英和辞典が完成します。同時にイギリスでは和英辞書も編纂されました。

CHANPITER 09 英語の研究と辞書
捕鯨
1820年代、新たな海洋資源として注目されたのが、照明用・潤滑油として利用する鯨の油。小笠原諸島が補給基地となり、ついに日本沿岸にも捕鯨船がやってきました。

CHAPTER 10 捕鯨
1822年、イギリス捕鯨船サラセン号が浦賀港で、薪と水を要求。それ以後、日本各地に姿を表します。1825年、幕府は異国船打ち払い令を発令し、沿岸警備体制を整えました。

サラセン号 文政5年(1822)金原周五郎氏寄贈
収集資料から見える歴史
中央のケースには、日本地図やブラザーズ号関係の描かれたイギリス人が並び、「鎖国」下においても、両国の交流を浮かび上らせます。

会場風景
これらの貴重な収集資料の連なりは、日英の今に至る歴史を俯瞰させてくれます。また今の時代も愛用される陶器の中に、両国の歴史が埋め込まれていたことを知ることができました。

日本にもたらされたイギリス陶器
[ 取材・撮影・文:コロコロ / 2021年5月28日 ]
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