京都・嵯峨の名刹、大覚寺は、嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を貞観18年(876)淳和天皇の皇后正子が寺に改め、恒寂法親王を開山としたのがその始まりです。嵯峨の地は、平安時代には皇族や貴族の遊興の地でしたが、同時代の大覚寺の動向については、残念ながら詳しいことがわかりません。
そのような大覚寺が復興する機縁となったのが、後宇多天皇の入山(入寺)であります。後宇多天皇(1267~1324、1274-87在位)は、文永4年12月1日、亀山天皇の第二皇子として誕生し、名を世仁といいました。幼少より、内外の典籍を修め、好学の天皇として知られています。文永5年6月25日に親王宣下、同年8月25日に立太子、文永11年正月26日に8歳で皇位を継承し、弘安10年に後深草天皇の第2皇子煕仁(伏見天皇)に譲位しました。
後宇多天皇は、仏教、ことに密教に深く帰依し、徳治2年(1307)4月14日、醍醐寺報恩院の憲淳より密教の重要な儀式である伝法灌頂を受けましたが、同年7月24日の皇后遊義門院の崩御を縁として2日後の26日、嵯峨寿量院において仁和寺真光院の禅助大僧正(1247~1330)を師として出家、僧名を金剛性と号して大覚寺に入山されたのです。天皇、41歳のことでした。師である仁和寺の禅助大僧正に対しては、きわめて厚い礼をもって終生の師と仰がれたのです。このようなことにも、天皇の真摯な人柄がよく表れています。その天皇は、密教の僧「伝法阿闍梨金剛性」として数々の聖教類や書跡を残していますが、元亨元年(1321)には大覚寺の金堂や僧房などの伽藍の造営、再興に力を尽くしました。まさに大覚寺の「中興の祖」であり、現在の大覚寺の基礎を築いた人なのです。
本年は、その後宇多天皇が大覚寺に入山されて、ちょうど700年という節目にあたります。これを記念して開催されるのがこの特集陳列です。今回は、後宇多天皇の自筆の書跡や聖教類、更には宸殿を飾っている桃山時代の画家狩野山楽の襖絵、平安時代の仏師明円の唯一の作例である五大明王像などの優品を選りすぐって展示いたします。