裏千家11代家元玄々斎精中宗室は、三河国奥殿藩4代藩主松平乗友の子として文化7年(1810)に生まれ、10歳で裏千家10代家元認得斎との間に養子縁組が組まれてその長女と結婚、文政9年(1826)に裏千家11代家元を継承しました。幕末から明治における日本文化疲弊の時期に、茶道を通じてその復興に尽力し数多くの功績を残した玄々斎は、古来の文物を研究し保存することの重要性を説き、茶道の精神と意義を「茶道の源意」と題して明治政府に建白する一方、明治維新後の外国文化の流入に合わせて、椅子を用いた立礼式の点前を考案することで、伝統を重んじる日本文化の開放性と適応性を内外にアピールしました。この相反する考えの共存共栄こそ、玄々斎の特筆すべき日本文化への功績といえましょう。
奥殿藩松平家は、松平4代親忠の子乗元より始まる大給松平家の分家で、大給松平5代真乗の子真次を祖とし、真次の子乗次の代には16000石の大名となり、大給藩が成立しました。大給藩3代乗真の代に現在の岡崎市奥殿町に陣屋を構えて奥殿藩が誕生し、その後150年にわたり奥殿を拠点として、三河に4000石、信濃に12000石の領地を有していました。幕末に幕府の要職を務めた8代乗謨は、藩の拠点を信州田野口(長野県佐久市)に移し、洋式城郭である龍岡城五稜郭を築いて藩名を龍岡藩と改めました。明治4年には廃藩となりますが、大給恒と改名した乗謨は、その後も博愛社(後の日本赤十字社)の設立や、賞勲局創設に尽力しました。
玄々斎生誕200年にあたり、その出身地岡崎において開催する本展では、京都・裏千家所蔵の玄々斎ゆかりの名品の数々を中心に、その事績と幕末・明治の茶を通観します。さらに奥殿藩松平家の歴史について紹介し、玄々斎の原点を辿るとともに、玄々斎から現代へと展開する新たな茶の湯の可能性を探ります。