ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館は、20世紀初頭の革新的芸術運動「青騎士」グループの世界的コレクションで知られています。
19世紀末のミュンヘンには、ドイツ美術における最重要拠点として多くの芸術家たちが集っていました。その中には、モスクワからやってきて、後に「青騎士」グループの中心的人物となるヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944年)もいました。1901年に芸術家集団「ファーランクス」を仲間たちと立ち上げたカンディンスキーは、翌年、画学生として入学したガブリエーレ・ミュンター(1877-1962年)と運命的な出会いをします。親密な仲となった二人は、オランダ、チュニジア、パリなど各地を歴訪した後、1908年、ミュンヘンに戻って生活をともにするようになります。
1909年、ミュンターがムルナウに家を構えると、後に「青騎士」と称される芸術家たち、アレクセイ・ヤウレンスキー(1864-1941年)、マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(1860-1938年)、アウグスト・マッケ(1887-1914年)、フランツ・マルク(1880-1916年)らが集い、活発な芸術討論の場となります。
「青騎士」グループの芸術革新は、1911年、「ミュンヘン新芸術家協会」の展覧会でカンディンスキーの作品《コンポジション1.X》が拒絶されたことを機に始まりました。ミュンターやマルクらは、後に「第1回青騎士展」とよばれる独自の展覧会を開催するため協会を脱退します。1911年末、タンハウザー画廊で開催された展覧会は、時代を象徴する衝撃的な出来事として注目されました。彼らの急進的な芸術理念を発表する場として、カンディンスキーとマルクが中心となって夏から進めていた年鑑出版の計画も、翌1912年『青騎士』年鑑として結実します。こうした「青騎士」グループの活動により、ミュンヘンは国際的芸術アヴァンギャルドの都市として一躍脚光を浴びることとなりました。
こうして、「青騎士」グループが今まさにこれから、という1914年、第1次世界大戦が勃発します。マルクとマッケが若くして戦場に散り、カンディンスキー、ヤウレンスキー、ヴェレフキンがドイツから去って、一夜にしてこの希望に満ちた芸術活動はミュンヘンから失われてしまいました。グループの離散により一人残ったミュンターは、ナチスドイツが台頭する困難な時代にも仲間たちの作品を守り続け、80歳になった1957年、手元に残っていたきわめて価値の高いカンディンスキーの作品、「青騎士」グループの画家たちの秀作、そして自身の作品をミュンヘン市とレンバッハハウス美術館に寄贈します。
この展覧会は、レンバッハハウス美術館の全面的協力により、日本では初めて「青騎士」グループの活動を本格的に紹介します。カンディンスキー、ミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキン、マルク、マッケ、パウル・クレーの油彩など60点を中心に、貴重な資料や写真を展示して、わずか10数年で戦火に飲まれた「青騎士」の活動を検証します。