
企画展『挑む 岡本太郎』中央広場(2021年)
『挑む 岡本太郎』と題された企画展が開催されています。
かっと見開いた眼。「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」といった言葉。巨大なパブリックアート。岡本太郎というその名を聞いただけで、すぐにそれらが思い出され、心の温度が上がります。
コロナ禍の今、岡本太郎さんが生きていたらどのようなメッセージを発信してくれたのだろう? そう想像しながら見学してきました。
子供は見届ける。そして許さないのだ。
プロローグのテーマは少年太郎の挑み。

『誇り』(中央, 母・かの子のための作品, 1962年)
岡本太郎さんは芸術家の家に生まれ、強烈な個性をもつ両親から“対等な人間”として扱われて育ちました。教師の子供に対する不当な扱いには憤り、学校に馴染めず、3度の転校を経て慶應義塾幼稚舎に入学します。
後日、次のような言葉を残しています。
「大人は、子供相手だとひどく油断し、いい加減だ。子供は見届ける。そして許さないのだ」
ひどくなつかしいと同時にいたいたしい。
続いてはパリ、青春時代の挑み。

『傷ましき腕』(国際シュルレアリスム・パリ展に出展, 1936/49年再製作)
18歳でパリへと渡った岡本太郎さん。重責や苦悩を抱きながら、最先端の芸術運動に身を投じます。美学や哲学、民族学なども学び、思想も深めていきました。
『傷ましき腕』などの作品は、純粋なリリシズムと同時に、反抗と告発をぶつけており、その頃の岡本太郎さんそのものだそうです。 当時のことを振り返って「ひどくなつかしく同時にいたいたしい」と表現しています。
徴兵されて中国へ。“冷凍された”五年間
戦中の写真と作品も紹介されていました。

『師団長の肖像』(戦中に描いた作品, 1942年)
パリに骨を埋める覚悟をした岡本太郎さんでしたが、開戦により引き揚げ船で帰国。徴兵されて中国の戦線に送られました。 軍隊と収容所で送った“冷凍された”五年間。その頃の決意を次のように書いています。
「弱気になって逃げようとしたら、絶対に状況に負けてしまう。逆に挑むのだ」
ゼロからのスタート、縄文土器との出会い。
終戦後は、日本美術界への挑み、孤独な闘いへの挑み、社会への挑みへと展開します。

『夜』(世田谷にアトリエを構えて最初に描いた大作, 1947年)
自宅は焼け野原に。パリから持ち帰った作品も全て失われましたが、世田谷にアトリエを構えて精力的に活動を開始。旧態依然とした日本の美術界に旋風を巻き起こしました。

『アドレッサン』(右, 中央に黒く勢いのある筆至で抽象的な形態が描かれている, 1974年)
縄文土器と衝撃的な出会いを果たしてからは、日本の文化や精神の源流を求める旅を続け、画風を大きく変貌させます。

『太陽の塔』(中央奥, 大阪で行われた日本万国博覧会に展示, 1970年)
芸術は一般の人に広く開かれたものであるべきと考え、パブリックアートを全国に設置。大量生産可能なインダストリアルデザインの作品も多数生み出しました。 晩年は病と闘いながらも制作活動を続けました。
森林浴も楽しめる美術館
岡本太郎美術館は川崎市の生田緑地内にあります。 木漏れ日の下を進んでいくと流水音が聞こえてくるのですが、それは美術館に向かう階段に流れる水の音で、なんとも涼し気でした。
ミュージアムショップに隣接したカフェでは、心地よい酸味の珈琲TAROブレンドをTAROカップで飲むことができます。

最寄り駅は小田急線・向ケ丘遊園駅。都心からも30分ほどのアクセス。
参考『挑む 岡本太郎展』図録(2021)
[ 取材・撮影・文:晴香葉子 / 2021年4月23日 ]
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