太田記念美術館がお届けする「秋の歌川派フェスタ」。「歌川豊国 ─ 写楽を超えた男」展に続く第2弾は、その豊国の弟子にあたる、歌川国芳です。
15歳の頃、初代豊国に入門した国芳。国貞(三代豊国)は兄弟子で、広重は師は違いますが、同年の生まれです。
当時もっとも人気があったのは三代豊国ですが、国芳も師の没後に出版された水滸伝シリーズがヒット。嘉永6年(1853)の評判記には「(三代)豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」と、二番目に挙げられるほどの人気絵師でした。
展覧会は作品を年代順に展示。画業の変遷を追えるのはもちろんですが、後ほどご紹介する「表現の規制」についても、時代背景とあわせて見ていくことができます。
国芳は17歳頃にデビュー。30過ぎるまで鳴かず飛ばずだったので、遅咲きの画家といえます。水滸伝で人気を博した後は、西洋風の作品など、さまざまな表現に挑戦していきます。
ようやく波に乗り始めた頃、世間を騒がせたのが「天保の改革」という大嵐。国芳が45歳の頃から綱紀粛正が厳しくなり、浮世絵にも歌舞伎役者や遊女を描くことができなくなります。
そこで、国芳が代わりに描いたのが、子ども絵。単に無邪気な子どもを描いたものもありますが、中には、本来は大人がするべき役回りを子どもにさせている絵もあり、国芳ならではの抵抗が見て取れます。
国芳の代表作のひとつといえるのが、47歳頃に描いた《源頼光公館土蜘作妖怪図》。作品は「判じ絵」、つまり絵の中に別の意図が隠されており、時の老中・水野忠邦を揶揄していると評判になりました。
体制を批判する浮世絵など、もちろんご法度。国芳は他の戯画でも幕府を批判しているされ、同心に身辺調査をされたり、奉行所から呼び出されたりと、すっかり要注意人物のレッテルを貼られてしまいます。
実は、国芳自身がどこまで反体制だったかは、定かではありません。本人の意思を越えて拡大解釈されていた部分もあり、時代が求めていた空気に、ちょうど国芳の作品がはまったともいえます。
展示作品の中には、校合摺(校正段階の試し刷り)では別の顔だったものが、出版物では役者の顔にしたものも。版元が時代の空気を読みながら、作品を作っていた事が分かります。目に見えない圧力を感じながら「表現の規制」と戦うさまは、驚くほど現代と似ているように思えます。
国芳の娘たちについては、展覧会の終盤で。浮世絵師の娘と言えば、葛飾北斎の娘である葛飾応為(お栄)が有名ですが、国芳のふたりの娘も浮世絵を描いていました。
娘の画号は、それぞれ芳鳥(1839-不明)、芳女(1842-不明)。それぞれ父の作品の背景部分を描いているほか、一人で手掛けた作品も。特に芳鳥は数えで15歳の頃、すでに一人で作品を描いているなど、かなり優秀な浮世絵師でした。
あまり知られていませんが、当時も女性の浮世絵師は何人かいました。展覧会最後には、国芳の門人、歌川芳玉の作品も紹介されていました。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年10月3日 ]