国吉康雄は1889(明治22)年、岡山生まれ。父は人力車夫の組頭で、美術とのかかわりは薄い環境で育ちました。
1906年に17歳で単身渡米した際も、はっきりした渡航目的があったわけではありません。渡米直後は機関車の洗車やビルの床掃除など、生活で手一杯の状況でした。
会場ロスの公立学校で教師に勧められてデザイン学校に入学。その後、ニューヨークに渡って本格的に絵の勉強をします。
国吉は幸いなことにアート・ステューデンツ・リーグの学生時代にパトロンと出会い、さまざまな援助を受けます。
本格的なデビューは1922年。33歳の時にニューヨークで開いた初個展は批評家たちから高い評価を得て、注目を集めるようになりました。
会場展覧会では、学生時代から晩年の作品までをとおして、国吉の足跡を振り返ります。
学生時代には印象派や後期印象派などの画風を学んでいた国吉の作品に、まるい顔の特徴的な人物が見られるようになるのは1920年代のこと。キュビズムとアメリカのフォークアートがイメージの源泉になっています。
人物の絵画国吉の絶頂期といえるのは、1930年代~40年代にかけてです。
切れ長で伏し目がちの表情、頬杖をついた少しけだるい雰囲気の女性像。国吉は「こうあってほしいと思う女性を描いた」といいます。
約10年にわたって、モデルを使いながら普遍的な女性のイメージを追い求めていきました。
後期のサーカスの絵など最後に展示されているのは、カラフルなサーカスの絵。国吉はニューヨークにサーカスが来ていれば必ず見に行くほどのサーカス好きで、自身が寄席芸人をしていたという説もあるほどです。
1952年にアメリカでアジア系移民の市民権獲得が可能になり、国吉も取得に動きましたが、残念ながら翌年に64歳で死去しました。
渡米後は一度しか帰国せず、アメリカ社会の一員として生きようとした国吉。今も数多くの作品がアメリカの美術館に残されています。(取材:2012年5月8日)